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僕と宇宙とインターネットとアート

● 現在の話。2013年2月吉日、僕は今ファミレスでMacBookProを開き、Jedit Xというソフトでこのテキストを書いている。テーブルの左脇にはイヤフォンに接続されたiPhoneがありMaltine Records Appで曲をランダムにストリーミング再生している。右脇には好物の蟹のアメリカンソーススパゲティの食べかけがある。モニタに微かに映り込む自分の姿は、小さいころの自分が想像していた将来像とは随分と違う。そもそも自分が現在想像している自分とも違う。自分は今の自分のことも、将来の自分のことも、何もわかっていないのだろう。

● わかっているのは今までいろんな場所で、いろんな思いを抱いて生きてきたということ。人生のある時からはそれがすべてアートに繋がっていたということくらいだ。人が星座をつくり、それを語るように、散在する光を繋げて物語を重ねることがプレゼンテーションに求められるとしても、その編集によって発生する不自然を受け入れることができない場合もある。散在する光をそのまま提示して、自然のまま残した方がよい場合もある。ここで記す言葉の群れは僕がアーティストとしてアートと対峙するときに脳内に散在する光のようなものである。その光は粒子であり同時に波動であり、時に指標になり、邪魔もする。将来自分がこの光の一つ一つを「コネクティング・ザ・ドッツ」してスティーブ・ジョブズのような成功者になれるかどうかは不明である。

● 僕の人生の序盤は人生観を決定づけたと思い込んでしまうほど複雑なものだった。アートとは直接かかわっていないけど、アートで純粋な衝動を少しでも扱っている限り、あらゆる決断に幼少体験がかかわっていると思ってしまうのは避けられない。一方で環境が自分の人生に影響を及ぼしたことを疑う自分もいる。こればかりはタイムマシンでもない限り否定も肯定もできない。

● 4歳から10歳まではロサンゼルスに住んでいた。このころの話を以前に一度だけブログに書いたことがある。今まで書いた記事で一番ジワジワと長い期間にわたりコメントをもらっている記事かもしれない。自分にとっての日常は他人にとっての非日常だ。自分の日々の決断が他人にとっての非日常の上でしか成り立たない…にもかかわらず理解を得たいのであればその非日常を共有することから始めるしかない。

● 小1の頃から現地の理数系ギフテッド・スクールに通っていた。そこには世界50カ国以上のルーツを持つ生徒がいて、日本人の両親を持つ生徒も、日本語を話せる生徒も学年に僕一人だけだった。理数系に特化した特別教育校だったこともあって、自分の畑を持たせてもらったり、家畜の飼育をしたり、爬虫類をホルマリン漬けにしたり、簡易式のロケットをつくって打ち上げたり、いろいろした。授業も特殊なプログラムだったらしい。言葉も満足に理解せず、友だちもほとんどいなかったけど、授業で学んだことは今でも断片的に覚えている。僕の最初の授業の記憶は太陽系惑星と分子構造の模型の記憶。大きな宇宙も小さな世界も全部丸くて似てるんだと思った記憶。そしてそれに対して、数はまっすぐなんだと思った記憶。

● アメリカの小学校での話(1)。ある日、映画「E.T.」の振り付けをしたという振付師がやってきて、顔を全面覆うマスクをして、指示された言葉通り体で表現するというワークショップがあった。僕は振付師の指示する英語が理解できなくて、黙って突っ立っていた。暗闇の中で、どうすることもできず皆の笑い声を聞いていたのを覚えている。僕はある時まで言葉が満足に話せなかった。日本語も英語もまともに話せるようになったのは、ある日突然だったという。言葉は象徴だ。言葉が話せないというのは何かを象徴している。いまだに言葉は苦手である。

● アメリカの小学校での話(2)。ある日、スペースシャトルの打ち上げを学校で見る機会があった。スペースシャトルにはクリスタ・マコーリフという、一般人として初めて選出された教員出身の女性宇宙飛行士が搭乗予定で、理科の先生の仲の良い友人だったこともあり、学校全体で打ち上げを見守ることとなった。そのスペースシャトルには白人以外にも日系人、そして黒人も乗るということだった。学校には白人も日系人も黒人も女性教員もいたので、その環境がそのまま乗組員の顔ぶれとシンクロして親近感が湧いた。しかし、スペースシャトルは僕らが見守る中、打ち上げ後しばらくして爆発し、空中分解した。打ち上げを見るのは初めてだったので最初は何が起きたのかわからなかった。しばらくして、会場はパニックになり、どこからともなく神父さんやら何やらが現れて子どもたちの心のケアをした。マコーリフの友人の先生は膝から崩れ落ちて泣いていた。それ以降の記憶は途切れている。その後、しばらくして僕は近所のスーパーで一冊の写真集を買った。その写真集は、数多くの写真とともに、事故の原因から乗組員の最期の言葉まで、爆発したスペースシャトルについて細かく書かれたものだった。その本は僕の人生で初めての愛読書となった。

● 僕はtwitterでも、tumblrでも、ブログでもなんにでも、始めたころから、背景に宇宙の画像を使っている。僕は宇宙に興味があり、一方でとても恐れている。宇宙とインターネットは少し似ている。音のない空間に点在する大量の情報。大小さまざまなクラスタ。不可視の因果的な繋がり。概念でしか把握不能な、膨張し続ける巨大空間。永遠に続きそうな時間。僕にとっては宇宙もインターネットも、希望であり恐怖の対象だ。スペースシャトルに乗るとしたら、冒険心とともに虚無を背負って行くことだろう。

● アメリカでは現地の小学校以外に二つの日本人学校に通っていた。一つは週二回のアフタースクールに行く、キリスト教色の強い、全学年で30人にも満たない小さな日本語補習校。家族がキリスト教だったからではなくて、放課後日本人学校がそこしかなかったから通っていた。日本語しか話せない子と英語も話す子が半々くらい居て、生徒同士は英語交じりの日本語、そして日本語混じりの英語で会話をしていた。授業の前には聖書の朗読があり、ことあるごとにお祈りをするような学校だった。その学校の影響でいつの間にか学校を離れても、怖い思いをしたり、願いごとをする時にお祈りをするようになった。日本に帰国してもしばらくは心の中でお祈りする癖は続いた。通っていたもう一つの日本人学校は土曜日に通うタイプの、いわゆる補習授業校とよばれる学校だった。一学年に数百人いるような地域最大級のもので、日本から来たばかりだったり、日本語しか話せない日本人が多かった。そのせいか、生徒同士は日本語で話すのが当たり前になっていて、英語で話すことはほとんどなかった。もちろん英語が話せる友だちもいて、ふとした時に英語を耳にした時には、彼らのもう一つの人生を垣間見た気がして、ドキっとした。

● 小学校に入学する前は、平日は現地の典型的な小学校付属幼稚園に通い、週末は仏教系の日本人幼稚園に通っていた。現地幼稚園は数年後に黒人暴動が起きた場所から徒歩数分という治安の悪い場所にあり、そういう文化圏の子供が多く来ていた。日本人幼稚園には大仏が収まってるような仏教的な建造物があったり、裏には恐怖の地獄絵図があったりで仏教的ないろいろが学べた。こんな感じで10歳くらいまでは、日本語環境、日本語英語混じり環境、英語環境、キリスト教環境、仏教環境、そして治安の悪い場所の現地校だったり、ギフテッド校だったり、さまざまな文化環境にほぼ同時期に属していたことになる。これが僕の幼いころの日常的環境だ。

● このような超変則的な環境の中で生きていたにもかかわらず、日本への帰国が決まった時には初めて環境の変化に直面するような恐怖を感じた。日本人学校では日本の学校の生活や、いじめ問題を授業で取り扱う。日本人学校に通う子どもは皆日本人だったのに、僕らは皆日本の日本人に対して陰湿で怖いイメージを抱いていた。レンタルビデオ店では日本の番組を録画したものを借りていたし、日本食スーパーにも頻繁に通っていた。一度だけだけど一時帰国もしていたし、その時には日本の親戚とも会っていた。自分にとって日本は身近で、同時に遠い存在だった。日本の小学校の初日。上履きの存在を知らなかった僕は靴のままクラスに上がってしまっていた。授業が始まりしばらくして、生徒の一人が手を上げて「先生、施井くんが土足で上がっています」と報告。クラスがざわついた。その後、先生の指示に従ってナントカ係の二人が僕の足元をホウキとチリトリで掃除した。ブラックレインで外国人を見る日本人の、あの笑ってるとも、ただ見ているだけともとれる目で皆に見られた。変な距離感はあったけど、優しい子もいた。「モンスターが学校に来たけど皆で受け入れよう」みたいな感じ。「英語を喋って」と会う人会う人に言われ、冗談をいうとアメリカンジョークと言われ、終始外国人のように扱われた。それが僕の日本の小学校初日の思い出だ。小学校3年生の最後の学期。「もしもタヌキが世界にいたら」という曲が「今月の歌」だった。世界中にいるタヌキと現地の言葉で挨拶して首都がどこか聞くみたいな歌だった。

● しばらく日本で生活し、高校に入ったころにはすっかり日本の生活に馴染んでいた。しかし一方で自分のアイデンティフィケーションの多くを占めていたはずの「アメリカ人の自分」が薄れつつあることにある種の危機感を感じたのだろう。高1で留学を決断した。服部君の射殺事件があった翌年だったこともあり留学希望者がものすごい減った年だった。選考の末、フィラデルフィアのホストファミリーの家に一年住むことになった。たまたま近所にあったフィラデルフィア美術館にはデュシャンの作品のほとんどを集めた有名なコレクションがあって、そこで見た「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも(通称:大ガラス)」が現代美術に関心を持つ大きなきっかけとなった。「大ガラス」はガラスに「絵のような何か」を挟んだような作品で、部分的に割れているし、当然ガラスだから透けているので鑑賞の際に向こう側の鑑賞者までが視界に入り込んでしまう。どこからどこまでが作品で、どのようにその作品を見て楽しめばよいのかわからなかった。自己のアイデンティフィケーションが常に不安に揺らいでいたからだろうか、そんな作品に自分の存在を重ねるような気分になった。韓国で現代美術が盛んなのは、メディアに美術が初めて大きく取り上げられた時、現代美術が中心に紹介されたからと聞く。また、日本で印象派が人気なのも同様の理由と聞く。真偽は定かではないが、僕にとって現代美術への興味は、この「大ガラス」がきっかけになっている。それが意味するものは意外に大きいかもしれない。

● 留学中、日本から来た何人かとともにフロリダのケネディ宇宙センター(NASA)に招待されて、局長クラスの人と話すチャンスをもらった。僕は彼に「宇宙人を見たことがありますか?」だったか「宇宙人の存在を信じますか?」だったか、宇宙人にまつわる質問をした。すると彼は自分が目撃した怪しい物体の話を、子どもをあやすように、楽しそうに話してくれた。どんな返事を期待していたのかは覚えていないけど、ひどくガッカリしたのを覚えている。それくらいからか、ほのかに抱いていた宇宙学への興味は薄れていった。

● 帰国後すぐに美術予備校に入った。僕は昔から絵を写真のようにキレイに描くのが得意だった。逆に、表現主義的な絵は得意じゃなかった。絵の描き方的には、日本画科かデザイン科、建築科の受験に向いているタイプだったけど、信頼する先生に「アートをやりたいならすべての基礎は油絵にあるから油絵科に行くべき」といわれて油絵科に入った。いま思うとよいアドバイスだったように思う。一番苦労する道だったかもしれないけど(涙)、確かにアートをやるには最良の道だった…ような気がする。

● 大学に入ってしばらくして改めてアイデンティフィケーションの問題と向き合うようになった。作品を作る上で、そしてそれを他人に評価してもらう上で、やはり人は基準を必要とする。小さい頃、様々な価値観がコミュニティに依存しているという現実、そして時にその滑稽さをリアルに経験して、主観的な表現や、コミュニティとその文脈に強く依存した表現に距離をおく癖がついていた自分にとって、また、そもそも現代美術=「大ガラス」のようにアイデンティフィケーションの定まらない物、というスタートの自分にとって、ハイコンテクスチュアルに表現を研ぎ澄ましていくという考えに折り合いが付けられるはずもなかった。でもそれ自体が「アメリカ人の自分」が理解するアメリカ的なハイコンテクスチュアルなアートの可能性があるという複雑崇高な矛盾もあったし、別に存在する「日本人な自分」の、日本的なハイコンテクスチュアルな作品が好きだという享楽的な矛盾もあった。村上隆や奈良美智といった日本的アイデンティティをそのまま海外に発信する作家が評価を高める中で、自己、そしてアートそのもののアイデンティフィケーションとの対峙が複雑化していった。

● 僕は会田誠がとても好きだし、同時にすごく嫌いだ。彼は僕がアーティストとして作品をつくるうえで避けているものを多く扱う。彼の変態性やcontroversialなテーマ設定の話ではない。ハイコンテクスチュアルで排他的なギャグ、短絡的なルサンチマン、そして技術力によるアート性の担保の話だ。しかしこれは日本人、そして前述の「日本人な自分」がいちばん好きなアートでもあるからこれまた複雑だ。確固たる軸を持ち得ない僕は会田氏を完全に否定することはできない。むしろ日本のアート環境を考えると実に巧妙に、器用に、思慮深く、日本美術固有の問題と向き合っているアーティストであることがわかる。だから僕は、小さいころに「新たなコミュニティに参加する時」にしたように、笑顔で「僕にもその感じわかるから仲間に入れて」と寄り添うことしかできない。そんな会田氏の作品の中には、スペースシャトルの爆発を描いたものがある。それは、僕の「人生で初めての愛読書」の裏表紙にもなってた写真がモチーフの絵だ。絵は言葉を発しない。多くの解釈を受け入れるのが絵画でありアートだ。しかし、アメリカに対する短絡的なルサンチマンが度々表出する会田氏の作品群の流れの中で、その作品の発する独特の空気は、僕のサムい「アメリカ人な自分」を悲しく刺激する。爆発したスペースシャトルの名前は「チャレンジャー」だ。よりによってなんでそんな名前にしたのか。その作品を前にすると、アメリカ、そして彼らの宇宙、そして付随するもろもろへの「チャレンジ」が、自分の中で気持ちの悪いものになっていくようなのだ。そのチャレンジの中には日系人のエリソン・オニヅカの起用も含まれている。僕がアメリカでされた日本人特有の細い目の真似。オニヅカも僕と同じ目をしていた。

多摩美では椹木野衣先生の授業が楽しみだった。一番楽しみだったのは「20世紀美術論」。20世紀美術の紹介はもちろん、毎週のように旬のアーティストがゲストで呼ばれる授業だった。僕はその授業で初めて近代美術史を体系的に学び、同時に村上隆、中ザワヒデキ、竹熊健太郎、大竹伸朗(敬称略)など多くのアーティストに生で触れた。中でも一番心に残っているのは椹木先生自身の授業で、シュヴァルの理想宮、ワッツタワー、ヘンリー・ダーガーなど「独りで全てをつくった」アーティストを紹介した授業。そこにこれからのアートのためのヒントが潜んでいることを示唆していた。リオタールが「大きな物語の終焉」の後には「たくさんの小さな物語」が生まれると言ったが、それをリアルな脅威、そして可能性として感じさせるような授業だった。僕がその後に「インターネットの時代におけるアートのあり方」を一人で模索する道を進んだのは、この授業の後押しがあったからだとも思っている。昨年末、僕は光栄にもこの授業にゲスト講師として呼んでいただき、現在進行中のプロジェクト「startbahn」の紹介と、受講生の中にいるかもしれない僕みたいな学生に向けて、未来のヒントを与えるという意味で「シンギュラリティとアート」と題したレクチャーをした。主にレイ・カーツワイルの提唱する「収穫加速の法則」を元に指数関数的に成長するテクノロジーとアートの未来像について話した。

● これから「startbahn」という、ウェブ上にヴァーチャルアートマーケットをつくるプロジェクトをローンチ予定だ。「startbahn」に至るまでに僕は数多くの思慮を繰り返した。最初の着想から6年が経つが、それ以前からもずっと考えてきたことがすべて反映されたプロジェクトだ。自分のアートのこと、日本のアートのこと、世界のアートのこと、そしてインターネットという宇宙のこと、未来のこと、全てに対する思い入れが詰まっている。流動性の確保や、経済面の解決案はもちろんのこと、アートの一つのムーブメントとしてあらゆるコミュニティでイニシアチブをとるためにどう設計すべきか。東京だけでなく地方、そして日本だけでなく、世界の人が使えるものにするにはどうすべきか…など。「startbahn」を設計することは、自分にとって未来のアートのカタチを設計することと同等の挑戦でもあった。この発想のすべては、ここにあげたような一つ一つの光(言葉の群れ)が、指標となり、時には邪魔をすることでできあがったものだと思っている。わかりやすい言葉に編集することは難しい。だけど一つ一つの決断には理由がある。

● 「startbahn」のローンチが迫った現在、僕は自分の発明した羽根を持って崖の上に向かっている気分である。羽根がちゃんと機能しなくて飛び出した直後に地面へと叩きつけられるかもしれない。自分の運命が自分の発明に委ねられている。「startbahn」のローンチのアナウンスは過去に何度も延期した。そのたびに何かしらの理由があったからだけど、今度こそローンチを決行したい。不謹慎だけど、僕の脳裏をよぎるのはチャレンジャーの事故だ。チャレンジャーの打ち上げ(英語でローンチと呼ぶのは偶然ではないだろう)は何度も延期され、当日の朝も条件が合わなかったのにもかかわらず決行した。今、僕は、インターネットという名の宇宙に向けて、アート的な冒険心とともに少しの虚無を背負って打ち上げに向かっている。もし、万が一、爆発してしまったとしたら、その姿を会田誠に描いてもらうんだ。

(2013年2月25日)

今後の予定

startbahnを近日ローンチ予定です。

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どれもリリース自体は古いですが…


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ラーメンデータベースの公式アプリ。ここの評価ポイントが一番信用できます

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