Queens State of Mind
美術館や博物館などの文化施設のメッカといわれるニューヨーク市にありながら、マンハッタン島からイースト・リヴァーを隔てたクイーンズにあるクイーンズ美術館(Queens Museum of Art, QMA)の存在を、おそらく日本ではご存知でない方も少なくないはず。1939年と64年の2回にわたるニューヨーク・ワールドフェア(いわゆる万国博覧会)の跡地であるフラッシングメドウ・コロナパーク内に位置し、両フェアにおいてニューヨーク市のパヴィリオンであった建物を改装し美術館としてオープンしたのが72年[*1]。
開館当初のあたりさわりの無い地方美術館のような近代・現代美術展覧会暦に変化が見られるのは、1994年著名建築家ラファエル・ヴィニョリ氏による改装を期してのことです。80年代後半ニューヨーク中心の西洋現代美術界でのバズ・ワード「マルティ・カルチュラリズム」、それまで欧米の白人男性中心であった現代美術界に地殻変動が起こりつつありました。エキゾチックな他者・僻地として取り扱われていたアジアやラテン・アメリカ、アフリカ、ロシアとその周辺の国々、黒人あるいは女性美術家、アジア系およびラテン系アメリカ人やゲイ・レズビアンといった、いわゆるマイノリティー・グループによる美術活動に、現代美術界メインストリームが遅ればせながらの関心を向け始めた時期でした。
イエール大学大学院に研修員として渡米していた柳幸典氏の個展が、QMAにて開催されたのが95年のこと。日本人若手アーティストがニューヨークの美術館で大規模個展で紹介されるのは、まさに前代未聞の出来事でした。
私が96年に当館学芸部にキュレトリアル・アシスタントとして雇用されて、まず担当を命じられた企画のひとつが、当時やはり長年住んだ日本から渡米したばかりであった中国出身の蔡国強氏の大掛かりな個展の準備でした。今や世界に名だたる蔡氏のアメリカ初の美術館個展は、翌97年に当館にて開催されました。
若手外国人(西ヨーロッパ以外の)アーティストたちを美術館での大掛かりな個展の形で紹介する取り組みは、それまでのアメリカにあまり例のないものでした。スタッフ数にして若干40人前後という中小(零細?)美術館であるQMAだからこそ、近代美術館(モマ)やホイットニー美術館などでは敬遠しがちなリスクの大きい取り組みが可能だったといえるでしょう。同時にインド、韓国、南米のコロンビア各国を個別に取り上げ、アメリカ在住および各国現地在住のアーティスト達の作品を同時に紹介するグループ展も意欲的に展開されました。
QMAならではの展覧会コンセプトの世界的定評は、99年に開催されたいわゆるミレニアム展(20世紀末を総括・回顧を趣旨する展覧会)「グローバル・コンセプチュアリズム」展にて確立されることになりました。同展は概念美術の軌跡をたどりながら20世紀美術を振り返るにあたり、世界各10か所の国や文化圏におけるそれぞれの事例を欧米コンセプチュアル・アートの亜流とする見方を再考察し、世界各所でコンセプチュアル・アートがそれぞれ独自の社会的・文化的文脈の中で発祥を検証する、という壮大に野心的な企画展でありました。世界中から招かれた11人の精鋭ゲスト・キューレーター陣には、日本担当としてニューヨーク在住の美術史家、富井令子氏と東京国立近代美術館キューレーターの千葉成夫氏がご参加くださいました。
こうしたQMA独特のパイオニア的姿勢は、マンハッタンの強豪美術館群とのライバル意識からくる戦略といったわけでもなく、クイーンズという土地柄を反映させた自然発生的なものであることをご説明しましょう。移民の国アメリカにおいて人種・文化のメルティング・ポットとして知られるニューヨーク市を構成する5つの地区(マンハッタン、ブルックリン、ブロンクス、スタテン・アイランド、クイーンズ)の中でも、最もそうした多様性が顕著であるのがクイーンズ。ここでは日常およそ138種の言語が話され、世帯主の50%以上が外国生まれ、つまり移民であるわけです(*2)。
*2:これらの数字は2000年度の国勢調査(Census)の統計結果によるもの。2010年に実施された統計結果が現在今か今かと待たれています。これには2003年の出産を期に、泣く泣くソーホーの小さなアパートをあきらめてここクイーンズに引っ越したわが家が含まれています。おそらく今回の新しい統計には、にわかに活気を見せるクイーンズのアストリアという場所に、ここ数年で成立しつつある新しい日本人コミュニティーが浮かび上がりそうです。
2回にわたるワールドフェアの跡地にあり、現在QMAが所在するニューヨーク・シティー・ビルディングは、1964年から1970年の6年間にはユナイテッド・ネイションズ・アッセンブリー、現在のマンハッタンにあるユナイテッド・ネイションの前身として機能した建物です。ここでは、南北韓国分離やパレスチナの分離が決議された歴史があります。マンハッタンのミッドタウンにあるグランド・セントラル駅からクイーンズ終着点のメイン・ストリート駅を結ぶ7番線のサブウェイには(といってもクイーンズでは地下鉄ではなく高架線ですが)、「インターナショナル・エキスプレス」との通称があります。その車窓からは、多様な文化圏あるいは国籍の混沌たる共棲ぶりが見て取れます。
こうしたさまざまなレベルでのインターナショナリズム、あるいはもっと最近の言い方に置き換えるとグローバリゼーションが、クイーンズの最たる特徴。21世紀になって現代美術界でもグローバリゼーションが新たなキーワードになり、ニューヨークにはその状況の先端をいく感がありますが、現代美術という限られた領域を超えて、世界人口流動の活発化に伴う文化・社会の複合化が将来に何を意味するのかを推察するには、まずはクイーンズを歩き回ってみることから始めてみてもいいかもしれません。ここでの日常には、文化・人種の共棲や融合がもたらすポジティヴ・ネガティヴのあらゆる側面がひしめき合っています。
例えば2002年以来で大雑把に隔年で開催している展覧会「クイーンズ・インターナショナル」は、クイーンズのグローバルな状況を如実に示しだす地元アーティストを集めたバイアニュアル展。私が手がけた2004年展は参加アーティスト58人のうち13国籍(23歳から98歳という世代幅広さも自慢!)、2009年の4回目はアーティスト60人18カ国。2007年開催の「Generation 1.5」展は、外国生まれながらニューヨークで活躍するアーティスト8人の全員が、10代の時期にそれぞれの母国からアメリカに移住したゆえ完璧なバイ・カルチュラルである移民一世と二世の中間的存在、ハイブリッドな「種族」であることに焦点を当てたもの。
2008年にスタートした「ラウンチ・パッド」は異色のアーティスト・レジデンシー・シリーズ。物理的にスタジオ施設を提供するものではなく、QMAという文化機関自体を情報や状況の資源および活性装置として、ここでのみ実現可能なサイト・スペシフィックなプロジェクトを実現してもらおうというものです。作品や展覧会ではなく、あえてこれをプロジェクトと称するのは、物質としての作品そのものよりも構想・制作過程においてのアーティストの活動を重視するため。従来の美術館観衆層や美術界の領域を超えて、一般社会を現場として捉えるプロアクティブな活動としての美術の方向性を奨励するするものです。このプログラムには学芸部だけではなく、教育部とパブリックイベント部が大いに活躍します。
クイーンズ在住の移民二世の子供達の中からまだその母国を訪ねたことのない者を募り、彼らによって作られた想像の母国を代表するパヴィリオンを集めて、もう一つのワールドフェアを構築した中国出身NY在住のオー・ジャン。このプロジェクト「Blazing the New Frontier」では当館教育部およびパブリックイべント部の密接なコラボレーションにより、地元の小・中学校や図書館などからの協力を得て若きクイーンズ住民に呼びかけました。彼女はリクルートのために多数の学校でのプレゼンテーション、制作にあたってのワークショップを行うなどの活動を、半年以上かけて準備を進めました。
ブルガリア出身NY在住のダニエル・ボシュコフは、ワールドフェア収蔵物の一部としてメトロポリタン美術館からの長期貸し出し作品であったミケランジェロのピエタの複製に一目惚れ。当館拡張工事のために廃業したばかりであった隣接のアイススケート場から運び出した大量の古い施設備品などを、この著名な古典彫刻と大胆に混ぜ合わせて60-70年代を彷彿させるインスタレーションを活動現場とする展覧会を立ち上げることによってレジデンシーを開始しました。
英語がおぼつかない地元クイーンズの移民を対象とした、QMA教育部の目玉プログラム「ニュー・ニューヨーカーズ」(アート制作という従来のワークショップではなく英語力の向上を目的とした演劇であったり、コンピューター実用技術を指導するなど多岐にわたるメニューで、しかも参加費無料!)の一環として、ボシュコフ自らがインストラクターとして数週間に及ぶフィクション・ワークショップを展覧会場内にて運営。文学的想定としてのフィクションではなくインスタレーションを通して架空の人物像を描き出す、どちらかというとむしろ演劇に近い趣旨のコース。参加者の手により展覧会の様相が日ごとに変化していくという進行型展覧会「Republik of Perpetual Reconstituion and Rebuild」とタイトルからして不可解きわまりないながら、美術館という場所で実にさまざまな人たちの間で思いがけない交流が生まれた、マジカルな状況をつくり出しました。
スタジオ施設を提供しないと前述しましたが、デューク・ライリーは根強い交渉で運営停止後工事を待つ時期に会った隣接のスケート場を、彼のプロジェクト「Those About Die Salute You」の準備のために獲得しました。面積にして4600平米、天井の高さが約14メートルという巨大なスペース。彼のプロジェクトは2008年のアメリカの経済危機に触発され、古代ローマが帝国崩壊の危機状況から民衆の関心をそらさんとグラディエーターや動物たちに死闘させる壮絶なスペクタクルのうちでも、特にわざわざ円形競技場などに水を張って海上バトルにみたてた「ナウマキア」を再現するというものでした。もともと地理的に海や川などの水域と陸が出会う場所に発生する特有の歴史的・社会的現象に関心を抱くライリーが、巨大なスケートリンクの楕円形状とその壮大なスケールを目にした結果です。
前代未聞の巨大スタジオには数えきれないボランティアが動員されて、QMA周辺の水辺から収穫した大量の葦、スケート場内に残されていたありとあらゆるジャンクをリサイクルしながら、むしろサーカスじみたバトル・シップの造船作業が続いたことおよそ半年。さすがにスケート場に洪水を起こすことは市から許可が下りなかったものの、思いがけなくもやはり64年ワールドフェアが残した噴水プールの使用許可が。2009年8月13日、一晩限りのイベントとしてプロジェクトを決行に持ち込みました。
七艘それぞれユニークなスタイルで念入りに用意されたバトル・シップのうち、5隻はニューヨーク市5区をそれぞれ代表するQMAチームをはじめとした他美術館4館から駆けつけたスタッフが乗り込んで、ライバル美術館の間で戦われるバトルという設定。館内ではなく公園内で行った無料のイベントでしたが、来場者は古代ローマ風のトガ着用が条件と案内を出しました。
私の猜疑心をよそに、日が沈むころにはなんとベッドシーツを体に巻き付けた(アート側人口と、たまたま通りがかったトガなしのほとんど地元の公園利用者をあわせて)2000人近い観衆がプールの周りにひしめき合いました(このときまで、アメリカの「トガ・パーティ」、大学生活のハイライトともいわれるはちゃめちゃなパーティーの伝統を知らなかった私でした)。4400個のトマトのほかいろんな食べ物が武器弾薬として観客にまで用意され、市の公園管理局の担当者や警察や消防局が待機する中、数々の前座的余興を経てようやく始まったバトルには、興奮のるつぼと化した観客の大部分が浅いプールに飛び込んで乱闘状態に。私や館長その他のスタッフが呆然とパニックの間を行ったり来たりする間もなく、まったくの予告なしにアーティストが密かに仕掛けていた大型花火が打ち上げられ、炎上沈没する最後の一艘をもってバトル終了。およそ20分程度だったはずです。
このイベントに関しては、事前事後のさまざまなエピソードのネタが付きませんが、ここまで読んでそれがアートなのと思われた方も少なくないでしょう。正直言って、その場にいながら私もそう思っていました。
ところがニューヨーク・タイム紙はもとよりありとあらゆるニューヨークのメディアで話題になり、バトル後の残骸を集めて構成したナウマキアのジオラマの展覧会も含めて、こういうことをやらかすQMAのような美術館が存在しないと、ニューヨークの現代美術界はマンネリ化するとの絶賛評をいただいたのでした。
「スタジオ・コロナ」はもうひとつのレジデンシー・プログラム。コロナとは当館より徒歩10分ほどにあるラテン・アメリカの国々からの労働者階級移民が密集する地域ですが、このプログラムはアーティストによる実社会を現場とした活動そのものを作品とする「ソーシャル・プラクティス」と呼ばれるスタイルの美術活動をサポート運営するものです。
今回、特別にニューヨークでも名うてのパブリック・アートの仕掛け人団体クリエイティヴ・タイムとのコラボレーションとして、今年当初から一年間このコロナに住居を構えて地元住民と直接の交流を押し進めているのは、キューバ出身アメリカ在中のタニヤ・ブルグエラ。彼女の「イミグラント・ムーヴメント・インターナショナル」プロジェクトは、アメリカにおける移民問題をじかにその対象人口であるクイーンズの住人の間で、ジャーナリズムや政治活動家としてではなくアーティストがカタリストとしてどう機能できるかを課題にしています。これには地元の市立クーンズ大学の美術修士課程プログラム内でのコース・ワークとして、大学院生たちが積極に参加することになってもいます。
有名美術館がひしめきあうニューヨークにおいて、マンハッタンからサブウェイで45分の距離はなかなかに克服できるものではありません。マンハッタンから水準の高いアート・ファンを当館へ招聘することも重要なチャレンジではありますが、英語もままならない地元人口、美術館や現代美術とは無関係を決め込んでいるコミュニティーをいかに動員することができるかというのはQMAにとって永遠の課題。
QMAではこれまでコミュニティー・エンゲージメントのコンセプトを主に教育部やパブリックイべント部の活動で展開してきましたが、学芸部も加わってのソーシャル・プラクティスというアートの形式はかなり希望の持てる答えの一つのようです。つまり彼らを当館におびき寄せるのではなく、彼らにアートをを持っていけばいいのだと。
当館館長のトム・フィンクルパールは、越後妻有アート・トリエンナーレでもキューレーターをつとめたこともあり、パブリック・アートの世界では大御所的人物です。歴史的には公園や街中の広場に彫刻や壁画を設置するものであったパブリック・アートですが、今やそのもっとも進化したものがソーシャル・プラクティスというわけです。
私はこうした動向も含めて、現代美術と人類(とここで大胆に言ってしまいますが)の関わりをもっと撹拌性や直接性、そして持続性のあるものと定義づけて運営していくことがこれからの美術館の役目だと感じています。2001年のアメリカ同時多発テロ事件の経験は、私のこうした思いを確信するきっかけとなりました。事件3日後には当館でも運営を再開しましたが、自分のデスクでインターネットの事件関連ニュースに釘付けになりながら、展覧会がどうした、自分は今こんなことをしている場合なのかというやりどころのない焦燥感に駆り立てられました。美術と日常における極限的人間状況との関係のあまりの脆弱さに愕然とする思いでした。こんな非常事態にあって美術館なんぞがこれっきり活動再開しなくても誰も気がつきはしないぞと。
いうまでもなくこのたびの東北関東大震災の悲報に、あのときの思いが蘇りました。実際、次の人生では医療や福祉関係あるいはジャーナリストや政治的活動家になりたいと思わなかったこともありません。でも、私はアートを信じています。戦争や災害というに大規模な困難に直面するとき、アートが即座に人の命を救うことも飢える人の空腹を満たすこともできないけれども。多くの人々にとってアートの恩恵とものというのは必ずしも実感、認識できるものでは無いことが多いではずです。アートや展覧会の質や成功は入館者数でも入館料売上げでもなく、決して数量化できないところにあるはずです。文学にも音楽にも、科学や医学を持ってもカヴァーできないものをアートが担当しています。人間性が健全に成立し機能するために必要な、情報分類化できない本能的かつ抽象的な人間という生き物の中枢をケアするのだと。
しかもアートの威力、本当の底力は決して直接体験からのみ得られるものでもなく、ごく間接的な体験者や状況との接触によって人からコミュニティーへと見えないところで見えない速度で、じわじわ浸透していくものだと理解しています。
クイーンズ美術館は、私のこんな少し気後れするようなロマンティシズムを現実味のあるものにしていける、数少ない美術館の一つです。
最後になりますが、3月13日のパワフルな表紙デザインで知られるイギリスの有力紙インディペンデントの表紙に、日本語で綴られたフレーズをここにもう一度。
がんばれ、東北。 がんばれ、日本。
(2011年3月28日)
今後の予定
同時に、再オープンに向けて既存の常設展示のリニューアルや倍増する企画展ギャラリースペースの運営計画に、目まぐるしいまでに多忙な日々です。2014年には、同館のニューヨーク・シティのパノラマをインスピレーションとして、人はなぜ見たいのかという根源的視覚の問題に迫る念願の大型企画展「Eye Wonder」(仮題)の準備も進めています。
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近々ニューヨークには来られますか?
くれぐれもクイーンズ美術館を訪れずにお帰りになることがありませんように。コラムではご紹介できませんでしたが、当館付近にはメッツの球場あり、テニス全米オープンの会場あり。おまけに今や、クイーンズは食通のニューヨーカーの最終目的地と言われるほどに、多種多様な国籍料理レストランの宝庫。
もちろん今シーズン、当館ではニューヨーク在住の韓国作家サン・ホワン・キム氏(Sung Hawn Kim)と、エジプトのハサン・カーン氏(Hassan Khan)のどちらも小規模ながらニューヨーク初の個展を開催中です。
今年5回目を迎える当館でもピカイチの人気サマー・イヴェント 「パスポート・フライデー」もお見逃し無く。
次回執筆者
バトンタッチメッセージ
クイーンズでは同じジャクソンハイツの住人なのに、ヒューストン美術館写真部で活躍する中森くんの仕事ぶりは噂で聞くばかり。昨年の快挙、石元泰博が撮った桂離宮の写真展とそのカタログはじめ、この場を借りてじっくり聞かせてもらえればと。よろしく!