第2回トークセッションレポート
「表現とともに社会をほぐす」
ファシリテーター:野田智子さん(アートマネージャー/Twelve Inc. 取締役)
Introduction
「ここからはじめるアートマネジメント」をテーマにスタートした、2024年のTAMスタジオ。次代のアートマネジメントを考える場として、最前線で活動するゲストを囲んだトークセッションと、現場視察を軸とした通年のプログラムも、いよいよ終盤です。
春の空気を感じる日差しに恵まれた2025年2月14日、全国各地から大学生・大学院生の参加メンバーであるスタジオメイトたちが集まり、東京・文京区のトヨタ自動車株式会社東京本社にて、第2回トークセッションとミーティングが開かれました。対面で集まるのは今回で最後。にぎやかなディスカッションが行われた1日をレポートします。
「TAMスタジオ」での体験と学びを糧にして
トークセッションに先駆け、主催者であるトヨタ自動車株式会社 社会貢献部 文化貢献室 室長 の三枝亜紀子さん(以下、三枝)が登壇し、参加メンバーへあたたかなメッセージが送られました。
三枝:今年1月から現職に就くまで、アメリカやブラジル、中国、フランスなどで仕事をしてきましたが、世界各国の方々とコミュニケーションをとる中で、アートをはじめとする文化芸術への教養の大切さを痛感してきました。
若い世代である皆さんが、この先、アートマネジメントの仕事に就いても就かなくても、ここで学ばれたことを通して、多くの方がアートに出会うきっかけとなったり、ご自身の活動の糧になったりすることでしょう。そこに少しでも貢献できたのなら、トヨタ自動車として非常にうれしいです。せっかくの機会ですので、今日はたくさんの事を学び、吸収していってください。
トヨタ自動車株式会社 社会貢献部 文化貢献室 室長 三枝亜紀子さん
"呼吸をするようにそばにあった" 福祉の仕事に就くまで
ファシリテーターである野田智子さん(以下、野田)の挨拶のあと、ゲストの奥山理子さん(以下、奥山)に、ご自身の幼少期からのさまざまなエピソードや、アートと福祉をつなぐ現在の幅広い活動に至るまでのお話を、約90分にわたってじっくりと語っていただきました。
奥山さんは現在、いくつかの肩書きをもちながら、精力的な活動を行っています。
- 京都府亀岡市にある障がい者支援を行う社会福祉法人松花苑が運営するミュージアム「みずのき美術館」のキュレーター
- 一般社団法人HAPS(ハップス)の事業「SW/AC(ソーシャルワークアートカンファレンス)」のディレクター
- 京都芸術大学大学院や東京藝術大学の履修証明プログラムDiversity on the Arts Project (通称:DOOR)の非常勤講師
- リサーチ・コレクティブ「ケアまねぶ」メンバーとして、福祉で実践されているケアマネジメントを応用したアーティスト支援を提言
障害者支援施設「みずのき」
中でもご自身の大きな軸となっている、と紹介されたのが、「みずのき美術館」でのお仕事。このトークセッションの時間をめいいっぱい使ってお話しいただきました。そのスタートは、奥山さんが中学1年生のころ。ソーシャルワーカーだったお母さまが「みずのき」の4代目施設長に就任したことがきっかけだったそう。
障害者支援施設「みずのき」は1959年に出口光平さんによって創立。5年目の1964年からは、施設に暮らす方々のために、日本画家の西垣籌一(にしがき ちゅういち)さんによる絵画教室がスタートします。
のびのびと描かれた作品の数々は、次第に芸術性の高さが注目されるようになり、1990年代には日本における「アール・ブリュット」「アウトサイダー・アート」の先駆者として、国内外で知られる存在に。1993年には、アメリカやスペイン、スイスなどを巡回した企画展「パラレル・ヴィジョン 20世紀美術とアウトサイダー・アート」展が、東京の世田谷美術館で開催され、「みずのき」の作家たちの作品も展示されたのです。
奥山さんのお母さまが施設長になったのはちょうどこの頃。奥山さんは「みずのき」で過ごす時間がとても楽しかったといいます。
奥山:中学生だった私にとって、「みずのき」で暮らしていた人たちは歳の離れた兄弟姉妹のような存在で、働いている人たちは親戚みたいな感じ。可愛がってもらって、とても居心地のよい時間を過ごしていました。でも当時は、福祉の仕事をやりたかったわけではなくて、「みずのき美術館」で仕事をするまで、福祉を仕事にするとはまったく思っていませんでした。
日本画家の西垣籌一(にしがき ちゅういち)さんによる絵画教室
当時の奥山さんの夢は、宝塚歌劇団で男役トップスターになること。そんな彼女の前に試練が訪れます。入学した中学校のクラスで出会った同級生の存在がきっかけとなり、奥山さんはいじめのターゲットになってしまうのです。
宝塚音楽学校への進学を目指すため、中学3年生で京都から群馬県にある全寮制の中高一貫校へ転校するも、ほどなくして心身のバランスを崩してしまい、休養することになるのでした。
奥山:16歳になる直前から外出できるようになるまで、5年ほどかかってしまいました。回復の目処がまったく立たない時期を過ごしながら、確固たる将来の夢を持っていたはずなのに、なんだか自分だけが社会の中に取り残されてしまったような...。
その中で、やっぱり母は心配で心配で仕方がなくて、一緒にいれば安否がわかるから、と、少しずつ私を「みずのき」へと連れていくようになります。施設内で眠っている日もあったけれど、調子のよい日は利用者さんと過ごしていたら、喧嘩したり騙し合ったり、素直な人間らしさが目の前にあったのです。この場なら、自分が不安に感じていたことに煩わされずにいられる、と思える時間が増えていきました。
回復と後退を繰り返す日々の中、奥山さんにさらなる出会いが訪れます。「みずのき」に就職した男性職員のパートナーで、ドイツで有機農法を学び、福祉施設の隣にあった農園を管理していた、というドイツ人女性の存在です。
農園活動の様子(2010年ころ)
施設長である母親の後押しもあり、奥山さんは、彼女と、当時1歳半ぐらいだった彼女の息子とともに、使われなくなっていた敷地内の畑を、土づくりから始め、再生させていきました。
奥山:今でもすっごい覚えてるんです。食事を受け付けず、体調が悪かったころはずっと、自分の身体が膜におおわれている感じがあって、誰かと喋っていても現実感がないし、歩いていてもなんだかちょっと浮いているような。なんだか社会と接点を持てない感覚がありました。
でも、彼女と一緒に畑を耕して、白いご飯を食べて、長い時間を一緒に過ごす中で、それまであった食への抵抗感が、少しずつ減っていったんです。そしてある日、畦道を歩いていたとき、地に足をつけて歩いているな、って、めちゃくちゃ思えた瞬間があって。その日から本当に、回復を実感していきました。
それに、キャベツを育てるとか、土を耕して綺麗な畝をつくるとか、畑仕事がもはやアート作品のように思えたんです。それまで私は、自分がアートをわからないことに非常に劣等感がありました。当時「みずのき」の人たちが絵を描いていたことも、アート関係者にすごく注目されていることも知っていたけれど、明らかに私はアートがわからない側。そんな私にも何かをつくり出せるし、クリエーションできる、という気づきが、誇りにも思えましたね。
農園芸の活動は広がり、やがて、隣接する遊休農地をボランティアの方々も交えて耕していくようになります。活動には、園芸療法士の方を通じて声をかけたという、引きこもりの方々も参加し、ほどよい距離感の中、「みずのき」の利用者も職員も、ボランティアも、みんながともに畑仕事をし、コミュニケーションを交わす。これこそが、奥山さんにとってのアートプロジェクトの原風景になっていきます。
施設長であるお母さまは、農園芸の活動を通して「みずのき」が少しずつ地域に開かれていくうち、アートプロジェクトを取り入れてみようと検討。岡山のNPO法人「ハートアートリンク」がすでに実践していた「アートリンク・プロジェクト」を、リサーチもかねて手伝わせてもらえることになりました。
「アートリンク・プロジェクト」とは、もともとはアメリカの福祉施設が始めたもので、アーティストと障がいのある人が半年間をかけて交流し、その内容を展覧会として発表する取り組み。奥山さんは、同世代のアーティスト2名と、ペアになった障がいのある女性とともに岡山から三重までの旅をともにしました。
奥山:私にとっては初対面の3人と電車に乗って移動する中、ひょんなことから長い長いしりとりが始まったんです。ただしりとりをしているだけなのに、言葉のチョイスがおもしろくて、ずっと爆笑していました。
それまで私は、‟アーティスト"ってどんな高尚なことをする人物なのだろう、と考えていましたが、真剣にしりとりをして爆笑し続けるのも彼らのふるまいの一つなのか、と思えたとき、こんなにも笑い合える関係を白昼堂々とやれるって、なんだかとんでもなく素敵な世界が広がっている、と気づいたのです。畑仕事をしていたときにも思いましたが、私、ここだったら呼吸ができそうだな、と。
山本文香+湯月洋志
アートリンク・プロジェクト2007(撮影:三宅航太郎)
「みずのき」での畑仕事、初対面のアーティストと障がいのある人とともに旅をした経験。ゆるやかで開かれた出会いや交流に、アートやアートプロジェクトの体験も経た奥山さんは、「みずのき」で動きだした美術館設立の準備にかかわります。
当時、国内にほとんどなかった「アール・ブリュット」をメインテーマに扱うミュージアム。その設立にむけ、日本財団がサポートするプロジェクトに参画し、2年の開設準備ののち、2012年に「みずのき美術館」が開館しました。
同プロジェクトには、「はじまりの美術館」(福島県耶麻郡猪苗代町)、「鞆の津(とものつ)ミュージアム」(広島県福山市)、「藁工(わらこう)ミュージアム」(高知県高知市)、ボーダレス・アートミュージアムNO-MA(滋賀県近江八幡市)といった4つのミュージアムも参画し、開館しています。
奥山:「みずのき美術館」の建物は、京都の町屋ならではの建築様式を活かしてつくられています。外からもミュージアムの中が見え、スタッフがどんなふうに働いているかもすべて筒抜けで、文字通り風通しのよい、気持ちのいい空間だし、いつかその扉を開けたい、と思ってくれている人たちへのメッセージにもなっているような建築のあり方なのです。
それが、私たちの振る舞いを促してくれているし、支えてくれているし、"こういう美術館でありたい"という象徴のようでもあるな、と、日々感じていますし、開館から12年が経った今も、新鮮な気持ちで、仕事として関わらせてもらえていますね。
「みずのき美術館」を中心とした、奥山さんの唯一無二の経験と多様な仕事のあり方
みずのき美術館
(撮影:阿野太一)
「みずのき美術館」では、収蔵したコレクション作品の保存と研究に加え、アートプロジェクトの手法を用いながら、美術館の"外"と有機的につながり続けていく取り組みが行われています。
その大きなきっかけとなったのが、2014~15年にかけ、アーティストの日比野克彦さんと、前述した全国各地の4つのミュージアムが連携して行った合同企画展合同企画展『TURN / 陸から海へ(ひとがはじめからもっている力)』(2014年11月8日(土)~2015年1月12日(月・祝))でした。
奥山さんは当時、アートの文脈における福祉や、障がいのある人の表現の位置づけ、作品の評価、そもそも「アールブリュット」をどう評価したらいいのか、といった数々の悩みを抱えていた中で本展を企画。アーティストがある場所に滞在して作品を制作する「アーティストインレジデンス」の手法にならい、福祉の現場におけるショートステイを日比野さんとともに実践しました。
福祉施設にショートステイする日比野克彦さん
奥山:各地の美術館が関連している福祉施設に、それぞれ3~7日間ショートステイをして、寝食をともにしながら、アーティストと共通言語や共通の景色を体験し、展覧会をかたちづくることを試みました。これは本当に、私たちにとって大きなターニングポイントになりましたし、日比野さんにとっても、本格的に福祉にかかわりを持つきっかけとなったそうです。
それまで、障がいのある人たちの作品は魅力的ではあるものの、作家自身が語らない、語ることができない場合や、画材などを支援者が提供している場合もあり、自律的なアート作品として捉えていいのか、は、長年の課題でした。しかし現代のアーティストは、さまざまなまなざしで社会を捉え、作品にしています。福祉施設で過ごす人たちや彼らの作品も、同じような視点で考えていけるのでは、と。
奥山さんは本展とほぼ同時期に、キュレーターとして別のアートプロジェクトを立ち上げる中で、大きな気づきと経験をします。今では廃れてしまった亀岡市に伝わる木造船「鮎舟(あゆふね)」を、アメリカ人の研究者であり船大工のダグラス・ブルックスさんと、かつて「みずのき」で農園芸をともにしていた引きこもり経験者の方々とともに復元するプロジェクト『ayubune 舟を作る』(2014年6月28日(土) ~10月13日(月・祝))です。
奥山:ダグラスは現代アーティストではないですが、このプロジェクトでは、アーティストのようなポジションで取り組んでくれましたし、参加した引きこもり経験者の方々も、その当事者や回復プログラムとして、ではなく、「鮎舟」を復元した人たちとして紹介され、国内外からも関心を寄せられた、資料性の高いプロジェクトになったのです。
私自身、こういったかたちのプロジェクトがありえること、そこに自分がかかわってできたことを、強みに思えた出来事でしたし、それ以来、何かしらのマイノリティ性を抱えている方たちと、時間をかけてプロジェクトを育てていくことへ関心を持つようになっていきました。
撮影:金サジ
一方で奥山さんは、プロジェクトを実施すること、続けていくことへの課題や率直な想いも話してくれました。たとえば資金の問題。プロジェクトの継続が予算ありきになってしまったり、どこかから助成を得ようとすれば、付随する事務的な作業の負担も少なくなかったりします。
また、奥山さん自身がかつて感じていた、"アートがわかる人とわからない人の溝"をなかなか埋められないことや、どこかで"豊かな才能を持った障がい者像"をつくってしまっていたのではないか、というジレンマのような感情も抱いていた、といいます。
トークセッションの最後に奥山さんが紹介してくれたのは、そのジレンマへの突破口となり、現在も続いている大切なプロジェクト「巡り堂(めぐりどう)」のことでした。
それは、国内で家財回収事業を行う一般社団法人ALL JAPAN TRADINGからの、アーティストの力で廃品をアップサイクルできないか、という相談がきっかけ。廃棄物として彼らの倉庫に眠っていた大量の画材や文房具を、奥山さんはそのまま譲渡してもらい、ボランティアと一緒に、消毒や分類、整理をし、必要とする方々に無償でお渡ししていく、という取り組みです。
奥山:ピッカピカになった画材や文房具たちは、創作活動をやりたいという全国各地の福祉施設や、若いアーティストの方々にとても喜ばれていますし、地域の方がワークショップを始めてくれたりもしています。コロナ禍に始めてから3年経ちますが、予算がなくても画材があれば続けていけるのも大きかったんですよね。今までにない協働の関係が構築できました。
「巡り堂」は、創作活動はせずとも、画材を拭いたり仕分けたりコツコツと続ける作業が得意な方、とりわけ引きこもりの経験がある人たちにとっても、よい経験につながっています。そうして整えた画材や文房具を使った作品がうまれることで、ここにかかわったすべての人たちが創作の現場を支えている、ということにつながるんですよね。使い古され捨てられようとしていた画材から始まる、というあり方もすごくおもしろいし、あらゆる人たちがアートや創作に携わることができていて、なんだかようやく、美術館としての最後のひとピースがはまった、という感じがしていて、とても大切なプロジェクトです。
撮影:梅田彩華
まさにドラマチックで波瀾万丈な日々をおくってきた奥山さんのお話に、野田さんも思わず「何回も感動しちゃって、うるっとしました」と笑顔に。じっと聞いていたスタジオメイトからも大きな拍手がおきました。
ここからは時間の許す限り、奥山さんへさまざまな質問が投げかけられていきます。
野田さんからは、「そもそも理子さんご自身は、美術のことをどこかで専門的に学んだの?専門性をどうやって身につけたのか知りたい。」との問いかけに「まったくの未経験から、ほぼ独学で」との驚きの答えが。
奥山:「みずのき美術館」の開館記念展『日本のアール・ブリュットについて語ろう私たちが考えるこれからの美術』(2012年10月8日 (月・祝) ~ 2013年3月17日 (日))には、現在、滋賀県立美術館のディレクター(館長)をされてる保坂健二朗さんが監修としてかかわってくださっていたので、展覧会の構成や進行管理、チラシやプレスリリースのつくり方まで、全部教えてもらいながら見よう見まねで取り組みました。
あと、日本財団のサポートのもと、NPO法人アーツイニシアティヴトウキョウ(AIT/エイト)が当時開講していた、現代アートの教育プログラム「MAD(マッド)」による特別レクチャーを受講させてもらえたのは、今でもとても感謝しています。
また、「みずのき美術館」の開館時からインストーラーとしてかかわる、美術家の森 太三(たいぞう)さんや、みずのき美術館の展覧会やプロジェクトに参加したことがきっかけで、障がいのある人の作品を扱うギャラリーで働くようになったという現代美術家とのエピソードなども、とてもユニーク。
「みずのき美術館」には開館当時から現在まで、本当に多種多様な人たちがかかわっていますが、その理由はどこに?
奥山:やっぱり私自身がまったくの素人で、自分だけではできない。常に誰かの力を借りたいし、借りた方が場がよくなるって思っていたから、いろんな方々にかかわってもらえてこれたのかも。
野田:理子さんが"誰かの力が必要だ"って手放せる勇気がすごいと思う。そのおかげで、本当にいろんなレベルの豊かさが、すべてプロジェクトに返ってきているのでは。すばらしいです。
奥山さんのように、困ったときに誰かに助けてほしいといえる力は、いま、「受援力(じゅえんりょく)」としてとても注目されています。かつて突然、社会に参加できなくなってしまった経験が、今の奥山さんの明るさやオープンマインドさ、しなやかなタフさを支えている、ともいえるかもしれません。
また、奥山さんは「当時、いろんなアーティストの生きざまがすごく支えになったんですね。こんなにも一人ひとり違う生き方があって、おのずと自分もこれでいいかな、と思えたから、引きこもりの人たちにもできるだけ、アーティストに出会ってほしいっていう思いがずっとあるかもしれないですね。」とも語ってくれました。
それに対して野田さんは、創作活動をしながら福祉施設で働くアーティストの友人たちにふれ、「理子さんの話を聞いて、アーティストにとっても安心する場所であるのかもしれないな、と思った」と話すと、
奥山:そうですね、アーティストにとっても、施設で暮らす方々にとっても、お互いに重要だと思います。そして"何の役割も強いられることなく、ただそこにいる、そこにいていい"という状態を、もっと当たり前にしていけたら。重い障がいのある人と出会うことは、私たちの人生に深みを与えてくれるうえで不可欠だと思うし、彼らとの交流を通して広がる世界のすばらしさを伝えていきたいですね。
あと、私のような少し特異な仕事がもっと増えるように働きかけていけたら、と。まだまだ画一的なイメージになりがちな福祉の現場を、もっと"出会ってみたい場所"にしたいし、"出会ったらやっぱりすごくよかった"って思ってもらえるようにしていきたいな、と思っています。
と答えてくれました。
スタジオメイトからも多数の質問が投げかけられた中で、最後に、「「みずのき」の活動を未来にどう残そうと考えていますか?」という問いかけに、「いい質問ですね」と奥山さん。
奥山:10代から30代の今までを振り返ると、周囲にロールモデルもいない中、実際に体験しながら活動を続けてきて、この先、次の世代のスタッフたちへ自分の経験をどう伝え、彼らを支えていくのか、考えないといけない時期だなと思っています。
「みずのき」のような入所施設は、どうしても長らく閉じられていた場所でしたが、展覧会などこれまでのあらゆる取り組みを準備の段階からできる限りオープンにして、自分たちだけの経験に閉じないようにしてきたし、社会に開いて、仕組みにしていけるように活動してきたつもりです。
最近、一人の人間の寿命より作品の寿命の方がずっと長いことを、より一層、痛感するんですよね。「みずのき美術館」が開館して12年の間に、収蔵作品の作家が何名も亡くなってしまったけど、作品はつい先週描いたみたいにみずみずしいし、これがどれほど尊いことか、と。この先、いろんな施設でつくられた作品についても、そんな眼差しで保存や展示に取り組んでもらえるよう、自分の経験を伝えていきたいなと思っています。
私自身、肩書きが一つじゃない理由に、一カ所だと雇用条件がどうしても低く見積もられてしまうということがあって、オリジナリティある動き方にせざるをえないっていうのは、今のところはまだ少しもどかしさもありますが、いろいろな場にフリーランスでかかわることができるって、強みになるのかも、と模索しています。なんとか私の次に続いてくれるような人材や仕組みを、あきらめずにつくっていきたいですね。
TAMスタジオもいよいよ終盤
スタジオメイトそれぞれが気づきをシェアし考える
予定時刻をオーバーしつつも、大盛り上がった前半のトークセッション。休憩ののち、ワールドカフェ形式で、それぞれの気づきや考えたことをざっくばらんに話し合ったスタジオメイトたちは、最後に車座になって座り、一人ずつ、考えたことをシェアしていきました。
特に多かったのは、奥山さんのキャリアから考えた、自身のこれからについて。
自分の今後のキャリアを考えるヒントになりました。アーティストのそばで支える仕事のイメージが強かったですが、施設の立場でかかわることもできるんだ、と気づけました。
これから就活するにあたって、自分のあいまいさ、はっきりしないところをコンプレックスに感じていました。でも奥山さんの話を聞いてみて、それを肯定し、人生にどう折り込んでいくか、積極的に考えていってみようと思いました。TAMスタジオは就活の軸を見つけるヒントにしたくて参加しましたが、たくさんのロールモデルを知ることができてよかったです。
就職が決まり、春から教育や文化に関する事業に携わるというスタジオメイトは、
奥山さんから、福祉とアートの話を聞いて、どこの配属になっても、何かできることがあるのでは、と思ったし、今日のお話を思い出してがんばろう、と。
といううれしい感想もありました。また、
さっきのワールドカフェの中で話していたんですが、私は今まで、人の一挙手一投足がその人なりの表現で、作品となる可能性があると思っていました。でも、そこで表現だ、といってしまうことは簡単で、議論を放棄していることにもつながる気がして。そもそも何が芸術やアートなのか、という問いは、揺らぎながらもしばらく考えたいです。
というすばらしい気づきをシェアしてくれたスタジオメイトも。そして、
奥山さんのお話の中で最も印象に残ったのが、"アートがわかる・わからない"の話でした。私自身も心の中にずっとある問いなんです。わからないことに腹を立てたり、悲しくなったりしつつも、奥山さんは「巡り堂」という一つの落としどころを見つけていらして、そういう活動があるって知れたと同時に、自分自身はどうやって落としどころを見つけるのか、考えてみたいです。
一方で、わからないことをそのままにしてもいいかも、とも思いました。実は昨日、DIC川村記念美術館に行ってきたんですが、展示室のキャプションには、作品名と作家の名前だけしか書かれてなくて、音声ガイドを聞きながら鑑賞しました。でも、美術館からのメッセージとして、作品と自分との対話ができる場所であることを大切にしてきて、作品を通して自分の声を聞く場所であることを目指して活動してきた、とあって、とても印象に残ったんです。情報がないままでもよいし、知りたい・理解したいという気持ちも大事にしたいし、みたいな。まだ少しモヤモヤと考えがまとまってないのですが。
という感想に、野田さんは
野田:とてもいい話。私も、わからないながらも、とにかく作品を見続けることや、人と話し続けることをあきらめないようにしているなぁ。今も、「この作品、よくわからない」みたいなことの連続だし、わかる・わからない、じゃないのかも、という感覚がずっとあります。
あと、DIC川村記念美術館の、"自分の声を聞くためにアートがある"という姿勢も素敵ですね。アートを見続けることで、確かに私自身が新しい気づきと出会う。そして、そのたびに自分自身が深まっていく。そういう意味で私を知ったり、誰かの声を聞いて自分を知ったり。その連続だったなぁと思って、とてもよい話をシェアしてもらえました。
今回も5時間があっという間だったトークセッション。8月にスタートしたTAMスタジオも、オンラインでの振り返りを残すのみとなりました。最後に野田さんからは、
野田:今日は理子さんのお話から、福祉とアートの接続点について、たくさんのことを学べたと思います。
福祉の現場からていねいに表現を掬い取っていく理子さんの仕事は、ケアする側、ケアされる側という関係性を超えた、社会の仕組みそのものをほぐしていく試みのように感じました。どうやってアートを届けるか、に限らず、もっと広い意味でどうやって他者と対話していくのか、生きていくのかということにもつながるエピソードが多かったようにも思います。
一方で今、ミュージアムや芸術祭の現場などでは、アクセシビリティへの取り組みが積極的に行われるようになってきました。たとえば、漢字に読み仮名をふったり、やさしい日本語で表記したり、ビジュアルデザインを工夫したり、と、障がいの有無を問わず、小さな子どもや外国の方も、誰もが気軽にアクセスできるように情報を届けようとしています。
障がいを持つ方が身近にいる、という人は少ないかもしれないけれど、たとえば、振り返ったら白杖を持った人が歩いているかもしれないし、見た目にはわからなくても耳が聞こえない方がいるかもしれない。自分のすぐ隣にいるかも、と想像することや、そういった人たちがどのようにアートを受け取っているかも考えるきっかけにしてもらえたらいいな、と思います。
とメッセージが。
そして、企業メセナ協議会の澤田常務理事から、スタジオメイトの皆さんへ向けて、
澤田:今日皆さんがこの場に集まってきただけで、もう十分すばらしいと思います。TAMスタジオを通して出会えた仲間の存在は、将来きっと役に立つはずですので、ぜひこのネットワークを大事にしていってください。
そして、人生の先輩から一つだけいわせていただくと、焦らないこと。奥山さんも、広い視野で取り組まれてきたことが、結果的にアートをサポートする仕事へとつながっていっていましたよね。
お話を聞いていた皆さんは、それぞれにいろんなことを感じて考えたと思います。この先の人生、時間をかけて少しずつ、自分というものができ上がっていくと思いますので、それを楽しみにしていってください。私たちも楽しみにしてます。ぜひがんばってください。
と締めくくりのメッセージがおくられ、熱気に包まれたトークセッションは幕を閉じました。
レポート概要
- 開催日:2025年2月14日(金)
- 会場:トヨタ自動車株式会社東京本社
- 登壇者:
- ゲスト: 奥山理子さん [みずのき美術館キュレーター、SW/ACディレクター]
- ファシリテーター:野田智子さん(アートマネージャー/Twelve Inc. 取締役)
- 取材者:Naomi(メセナライター)
- 写真撮影:ネットTAM運営事務局
Naomi
服作りを学び、スターバックス、採用PRや広告、広報、ファッション誌のWebメディアのディレクターなどを経てフリーランスに。学芸員資格も持つ。https://lit.link/NaomiNN0506