第1回トークセッションレポート
「復興するまちで人びとの暮らしをつなぐ」
Introduction
「ここからはじめるアートマネジメント」をテーマにスタートした、2024年のTAMスタジオ。
次代のアートマネジメントを考える場として、最前線で活動するゲストを囲んだトークセッションと、現場視察を軸とした通年のプログラムが今年度もスタートしました。
オンラインでのキックオフオリエンテーションと、初回のミーティングが開催されてから、ちょうど1週間が経った2024年8月27日。全国各地から大学生・大学院生14名が集まり、東京・文京区のトヨタ自動車株式会社東京本社にて、第1回トークセッションとミーティングが開かれました。台風10号の接近にともない、一時は開催も危ぶまれましたが、初めて参加メンバーらが対面で集まり、活気あるディスカッションが行われた1日をレポートします。
「TAMスタジオ」での出会いを、これからの学びやそれぞれの活動に活かしてほしい
トークセッションに先駆け、主催者であるトヨタ自動車株式会社 社会貢献推進部 部長 井上武氏(以下、井上)からご挨拶。アートマネジメントの仕事の役割や、参加メンバーへあたたかなメッセージが送られました。
井上:アーティストの方々の活動はもちろん尊くすばらしいですが、その表現を行う場・瞬間に至るまでには、展示や公演の企画、テーマや演出などの決定に、開催場所の手配や資金調達、広報活動を行うなど、アートマネジメントに携わる本当に多くの方々の存在が不可欠です。
また、「TAMスタジオ」でのゲストの方々や全国から集まったメンバーとの出会いは、いつかきっと役に立つときが来ると思います。この先、活躍する分野や地域は異なったとしても、何かしらを感じ、持ち帰ってもらえたらうれしいです。
大企業への就職より、‟困難"で‟わからない"からおもしろいアートの仕事へ
まずは、参加メンバー全員が自己紹介。ファシリテーターである野田智子さん(以下、野田)の提案で、「最近こころが動いたこと」を、一人ひとりが話していくと、あっという間に和気あいあいとした空気が流れ始めます。さらに参加者らを笑顔にしたのは、ゲストの林曉甫さん(以下、林)が提案した、「クラシックなラジオ体操」。 「六本木アートナイト」で、NPO法人インビジブルと日本フィルハーモニー交響楽団が数年にわたり早朝に行っていたというこの催し、ランチ後の会議室で楽しげに再現されました。
野田さんと林さんは、共通の友人であり仕事仲間である中﨑透さんを介して、2013年に同じアートプロジェクトにかかわって以来、旧知の仲ということもあり、レクチャーはとてもリラックスした雰囲気でスタート。冒頭、林さんは、大学在学中にボランティアとしてかかわり始め、のちに2013年まで職員として勤務していたNPO法人BEPPU PROJECTでの取り組みや、独立後に立ち上げたNPO法人インビジブルでの取り組みについて紹介してくださいました。
たとえば、「別府現代芸術フェスティバル『混浴温泉世界』」(2012年)の実行委員会では事務局長を務め、事務局の運営全般や、参加作家のサポート、作品設置にまつわる折衝やあらゆる業務を担当したり、「鳥取藝住祭」(2014~15年)をはじめとする自治体との取り組みであったり、全国各地で規模の大きな芸術祭やアートプロジェクトにかかわり、幅広い業務を経験されてきたことが伝わってきます。
そもそも美術大学の出身ではない林さんが、なぜアートの仕事をやりたいと思い、アートマネジメントに携わるようになったのか。野田さんの問いかけに、林さんは、高校3年生でメキシコ郊外の田舎町にホームステイしたときのエピソードを話し始めました。スペイン語がほぼわからない状態で行ったものの、3カ月後には何となく話せるようになっていたころ、たまたま出会った6歳くらいの男の子が、自国の言葉であるスペイン語をまったく喋れないことに、ただならぬショックを受けた、という林さん
林:勉強したくないって地球の裏側から来た自分に対して欺瞞を感じたし、結局、自分はいわば‟搾取する側"だから、こういう生活ができているんだ、と気づいた。それに、地域が変わればルールも違う。当然だけど、自分たちの‟当たり前"は当たり前ではない。そこで初めて、国際経営や発展途上国の貧困支援について、もっと知りたい、勉強したい、と思うようになったんだよね。もしあのときメキシコに行ってなければ、今、アートの仕事をしていないだろうし、福島へ移住もしていないと思う。
自分が働くことで、ある地域に対してどんな働きかけができるのか。自身が関心を持ったテーマを研究しようと、大分県別府市にある立命館アジア太平洋大学(APU)へ進学します。たまたまボランティアでかかわった地元の経営者との縁から、歴史ある「駅前高等温泉」を存続させようと、週末だけ営業するカフェを始めた林さん。そこで出会ったのが、BEPPU PROJECTの代表理事を務める山出淳也さんと、アートディレクターの芹沢高志さんであり、彼らに依頼されたのが、全国各地のアートNPOが集うフォーラムの開催事務局長の仕事だったそう。当時の林さんは、アートの仕事への興味も知識もまったくなかった状態にもかかわらず、任されるままに取り組んだ、という話には、野田さんをはじめ誰もが思わずどよめいてしまいました。
林さんのタフすぎるエピソードはまだまだ続きます。大学在学中、時間を見つけては言語のわからない世界各国へバックパッカーをするなかで、マダガスカルで出会った同世代の人と話をするうち、すでに内定をもらっていた大企業へ就職するよりも、アートから始まる社会のコミュニケーションのほうが、絶対におもしろいし可能性があるのでは、と考え至ります。
林:たとえば一緒に山登りをすることで仲間意識が生まれるよね。また、皆さんのように全国各地から集まった初対面同士で生まれる交友関係も大きな実りがあると思う。人間関係をつくってくれたり、組み直してくれたりするのは、一緒にきついことをやるか、よくわからないことをやるか。恐らくその両方が起きるのが、アートプロジェクトなのでは、と(笑)。それで、山出さんにBEPPU PROJECTで雇ってほしいと直談判した。その数年後、他の地域でも仕事したくて独立したんだよね。
とはいえ、コツコツ積み上げてきた自分の仕事の実績や経験、人間関係を、自らすべてゼロにして新たな場所でスタートする、というのは、誰しも躊躇してしまいそうですが、それでも「よくわからないものや弱小な状況へと自ら積極的に突っ込んでいける原動力は?」という野田さんの問いに、「単純に、見たことのない風景を見たい、というわりとシンプルなことかもしれない。確かに大学生のころは、何者でもないし何も背負っていないことの強さは確かにあったけれど、今も別に、積み上げてきたものや価値や報酬って、いくらでもゼロにできると思うから。」と林さん。
お話しを聞けば聞くほど、視野が広がるような感覚と、何かにチャレンジしたくなるようなパワーがわいてくる時間でしたが、今回のトークセッションのテーマ「復興するまちで人びとの暮らしをつなぐ」のお話は、ここからが本題です。
複合災害からの復興を目指す、福島県富岡町へ移住してからのこと
林さんは、アーティストとともに作品を制作することに大きな熱量をもって取り組む一方で、プライオリティとしてさらに大切にしているのが、「アートという体験を通して、その人が意図せずとも、価値を感じる物事や行動の指針が変わってしまうようなきっかけがつくれるかどうか」。そして「アートを通して、見えないものを可視化したり、既存の‟価値"や‟正しさ"、‟社会のかたち"を問い続け、答えを探し続けたりすることで、少しでも社会の仕組みをアップデートさせたい」と話します。
なかでも最も今アップデートさせたいと考えている地域が、東日本大震災での複合災害によって大きな被害を受けた、福島県の沿岸部であり、林さんが2021年に移住した富岡町での取り組みです。
新しい文化や現代アートの取り組みと並行して、伝承されてきた地域の祭りや消防団の活動にも参加しているという林さん。その幅広いプロジェクトについて、6つのキーワード「教えない教育」「美術館と観光」「食と環境」「居場所づくり」「歴史と記憶」「復興計画について」から、参加メンバーが聞きたい話題を、時間の許す限り語ってもらうことに。残念ながらここではすべてをご紹介できないのですが、どのプロジェクトも非常に興味深いものばかりでした。
たとえば、「教えない教育」は、学校内で、年に1人の美術作家や音楽家が、一定期間、滞在して、児童たちと過ごす、「PinSプロジェクト」というもの。その目的は、学校を地域のコミュニティの開かれた場にすること、そして、子どもたちに教えるのではなく、自ら発見する機会につなげることです。必ずしも児童全員が興味を持つわけではないけれど、自らおもしろいと思うものにモチベーションを持って探求していける場をつくろう、とスタートしたそう。また、家族や地域、学校の先生だけではない、多様な大人のあり方に自然と出会えるのは、子どもたちの世の中を見る目や、仕事、ひいては生き方の幅を広げるようなユニークな取り組みといえるでしょう。
また、「美術館と観光」は、現代美術家 宮島達男さんによる私設ミュージアムのプロジェクト。林さんと宮島さんの出会いは、なんと林さんが大学生のころ。NPO法人BEPPU PROJECTに関わり最初のプロジェクトが宮島さんの「Counter Voice in the Earth」という作品制作でした。また、林さんがNPO法人インビジブル設立後に初めて手掛けたプロジェクトが、宮島さんが制作した港区六本木にあるパブリックアート「Counter Voice」を毎年3月11日〜13日の3日間限定で再点灯する活動などを展開した「Relight Project」だったそう。
震災当時、山形市にある東北芸術工科大学の副学長だった宮島さんは、2015年以降、「時の海 - 東北」プロジェクトの制作を続けています。これは数字のデジタルカウンターを用いたインスタレーション作品《時の海》シリーズの最新作にあたるもので、先日この作品を常設展示する巨大なプライベートミュージアムを、浜通りに建設する構想を発表。今年の7月には、美術館建設準備室が富岡町内に開設されました。
林:宮島さんは世界的に知られたアーティストなのに、巨大な「時の海 - 東北」の制作と、そのための美術館を自分で建設しようとしている。「全財産を投げうってでも、この作品をつくる」という意気込みで、2015年からずっと準備して土地を探し続けていた。そして、まさにこの場所しかない、というくらいにぴったりの候補地が浜通りでようやく見つかった。
先日、なぜこんなチャレンジをするのか、宮島さんに思いきって尋ねたら、「アーティストとしての自分の大きなけじめだ」と話してくれて、本当にぐっと来たんだよね。もちろんこのプロジェクトは、東北という地域や、そこに暮らす人のためにもなるけれど、それ以前に宮島さんは、自分のためにやろうとしている。自分が見たい風景、聞きたいもの、体験したいことがあるからやる、っていうのは、強さがあるし、巡り巡って利他につながっている。だからみんなもアートプロジェクトをやるなら、まずは自分のためにやることが大事なんじゃないかな。
宮島さんと長年にわたって、さまざまなプロジェクトを行ってきた林さんだからこそ、のエピソードです。宮島さんの姿勢と言葉には、おそらく参加メンバーの誰もがハッとさせられたのではないでしょうか。
さまざまな気づきから、ざっくばらんに言葉が交わされたミーティング
約2時間におよんだトークセッション後、休憩を挟んでスタートしたミーティングでは、3~4名のグループごとに、メンバーを変えながら、林さんと野田さんのトークセッションを聞いて考えたこと、疑問や関心を持ったことなどをシェアし合いながら、ざっくばらんに掘り下げていきます。発表が前提ではないからこそ広がる会話の中には、「震災のイメージしかなかったけれど、福島に行ってみたくなった、知らないことが多かった」という声も。
時間を経るごとに皆が打ち解け、会話が弾んでいく中、あっという間に開始から4時間が経過。最後の1時間は、野田さんや林さん、参加メンバー全員が車座になって、フリートークを交わしていきました。一人ひとりが、率直な感想や考えたことを真摯に話し、それを時に頷きながら聞くメンバーの姿勢からは、野田さんと林さんのトークセッションと、その後のグループミーティングで、それぞれが多くのものを得て、気づき、考えた時間だったことが伝わってきます。
たとえば、
「アートにかかわる切り口はたくさんあって、自分がかかわりたいと思ったらいつでもかかわれるんだな、って気づきました」という声や、「音楽の理論とか芸術性とか、専門的に学んできたけれど、一周回ってもうちょっとシンプルに考えてもいいのかな、と思いました。新卒ではアートの仕事に就かないかもしれないけれど、何か縁があったらいいな、と」という声には、
林:アートの仕事に就かなくても、美術っていうメディアがあるから考えられることは何歳になってもあると思う。60~70歳になってからかかわってもいいし、自分が楽しいかどうかがいちばん大事。
野田:異分野に行くからこそ、アートのことが活きると思うよ。
とお二人。また、「音楽やアートを専門に学んでいる方がたくさんいて、いろんな地域から参加している方々とお話しできて本当に楽しかったです。行政の担当の方が必ずしもアートに興味があるとは限らないし、頑張って一緒にやってもすぐリセットされたり、先を見据えて一緒に活動していくのが難しいと考えていましたが、自分たちがいなくても続いていく仕組みをつくる、という林さんの話には驚きました。」という、現場担当者ならではともいえるような声には、
林:価値観はそれぞれだけれど、根底には「このまちってもっとおもしろくなるし よい教育や取り組みをしていきたいよね」と、同じように考えている人たちは必ずいると思う。あとは、自分たちが実現させたいって思っているものにかかわってもらうため、地域の方が主催する活動に参加し信頼関係をつくろうとするようにする。たとえば消防団に入ったり一緒に野球をやったり神事に参加したり。そういう活動の中で関係を育み、地域住民としての関わりをつくることも大切。
と、地域の中で新しいことに取り組むときの、実践的なアドバイスを交えながらの返答も印象的でした。また、
「私は、社会貢献のあり方、考え方について学べた時間でした。最近はどこか、‟社会貢献をしなきゃいけない"みたいな風潮があるように感じていましたが、どんなことをやればいいのかわからないし、国際協力といっても偽善のようで。でも宮島さんのお話を聞いて、自分のためであっていいんだ、自分がやりたい、という動機でもいいんだ、と。」
という声に、野田さんは、
野田:そうだね。私も年齢を重ねていくうち、どこかで「社会のために」とか「世の中へ還元したい」みたいな気持ちとか「公共的なものとして、アートはどうあるべきか」を考えるようになっているけれど、宮島さんの発言を聞いて、もう一度、自分自身に立ち返っていいんだ、自分がやりたいかどうか、でいいんだって気づかせてもらえたな。
と、自身にひきつけて率直な考えを。
林さんも、
林:世の中のすべての問題に関心を持って考えられるか、と問われれば、どうしても難しいと思う。それでも自分の至らなさを引き受けながら、少なくとも今自分が関心のあることで、少しでもよくしていこう、と考えて行動したいよね。結局のところ、自分自身が他者や社会に対してどうかかわっていけるのか、だし、自分で自分を変えていくことしかできないと思うから。
と、彼らの言葉をていねいに受け止めながら、さまざまな気づきを共有していきます。
林さんは、福島へ移住したきっかけの一つに、自身が東京で生まれて都市に暮らし、地方から電力を供給され続けてきた‟加害者"の側であり、自分自身の問題としてとらえていること、また、差別や戦争などあらゆる‟語りにくいこと"が、語れなくなってしまうことへの危機感から、多少不謹慎かもしれなくても語り続けていたい、と話すと、
野田:自分たちがプロフェッショナルとして仕事をしている時代に震災が起こり、当事者のようにこの震災のことを捉えているとは思うんだけど、同じような領域の仕事をする林さんが、震源地である福島へ移り住んだ。そのことは私にとっても間違いなく大きな刺激をもらっています。人生の舵を大きく切って3年経ったくらいのタイミングで、リアリティのある話をしてもらえたのは大きい。今日は林さんの切実さを高校の留学時代から一貫して感じることができた。
と野田さん。
同世代であるお二人は、互いにアートプロジェクトの最前線で活動し続けてきた間柄であり、さまざまな実情を知っているからこそ、今回のトークセッションやミーティングで交わされた言葉の数々は、参加メンバーの背中を力強く押してくれたことでしょう。
レポート概要
- 開催日:2024年8月27日(火)
- 会場:トヨタ自動車株式会社東京本社
- 登壇者:
- ゲスト 林曉甫さん[NPO法人インビジブル 理事長/マネージング・ディレクター]
- ファシリテーター 野田智子さん[アートマネージャー/Twelve Inc. 取締役]
- 取材者:Naomi(メセナライター)
Naomi
服作りを学び、スターバックス、採用PRや広告、広報、ファッション誌のWebメディアのディレクターなどを経てフリーランスに。学芸員資格も持つ。https://lit.link/NaomiNN0506