それでもここで生きていく
小渕浜(こぶちはま)は宮城県の牡鹿半島にある人口500人ほどの集落で、住民の多くが漁業を営んでいました。昨年3月の東日本大震災では、津波により8割以上の家屋が流され、漁師たちは船や漁具、漁業倉庫、加工場などを失ってしまいました。
私が友人とともに小渕浜に物資支援を行うようになったのは、震災から2か月が経とうとする5月の初め。その頃はまだ漁業に対する支援策は決まらず、漁師たちはなすすべもなく避難生活を送っていました。
2度目の物資支援で小渕浜の避難所をまわっていたとき、小渕実業団の副団長を務める漁師の後藤晴人さんに出会いました。小渕実業団は、小渕浜の青年団のようなもので、小渕浜の氏神様である五十鈴神社の管理や、例祭、そして正月の獅子舞を担っています。その獅子舞で使われる獅子頭も震災による津波で流されてしまい、いくら探しても見つからない。後藤さんは、それをなんとかしたいと話してくれました。
その後、避難生活を送る漁師たちに獅子舞のことを尋ねると、誰もが顔をほころばせながら、小渕浜の獅子舞がいかに格好よかったかを話す様子に、その獅子舞がいかに小渕浜の誇りであったかを感じたのです。
全国的に名前が知られた文化財ではないし、いつから始まって続いてきたのかさえ定かではない小渕浜の獅子舞。しかし、この牡鹿半島の小さな集落の生活に根づいた郷土芸能こそ、震災の影響でなくしてはならないもののはず。私はそう考えて、後藤さんに助成金や寄付金を募って獅子舞を復活させることを提案しました。
すぐに獅子舞の復活と7月の五十鈴神社の例祭開催に関する住民アンケートが行われ、獅子舞は復活させるべきで、7月の例祭も開催するべきだという意見が圧倒的多数という結果が出ました。誰もが小渕浜には獅子舞が必要だと思っていたのです。
それから私は獅子舞復活に該当する助成金を探し、申請を行い、同時に獅子舞復活に動き出しました。まずは資料集めです。小渕浜の獅子舞には、頭に「こぶ」があるという特徴があり、黒塗りで精悍な面構えを持っていました。復活させる獅子頭はできるだけ同じものにしたい。そのために津波の被害を間逃れた家から写真やビデオを探しました。
そして次に獅子頭を彫ってくれる人を探しました。インターネットで検索すると、県外に獅子頭を彫っている工房がいくつか見つかり、そこにお願いすることも考えました。しかし、できるだけ同じ獅子頭にするためには、近くで作業をしてもらい、随時修正しながら製作したい。それと、できるなら牡鹿半島や小渕浜にゆかりがある人に頼みたい。そう考え、彫ってくれる人を探したところ、牡鹿中学で美術を教えている、芸術家の柴田滋紀さんが引き受けてくれることになりました。
「同じ獅子頭にしたいなら、まずは粘土で製作しましょう」という柴田さんの提案で、まずは粘土の獅子頭が製作されることになりました。
集まった写真やビデオを参考にしながら、何度も何度も私や後藤さん、小渕実業団団長の阿部輝彦さんが、製作場所として借りた「石巻工房」に足を運び、ああじゃない、こうじゃないと製作していきました。
6月の半ばを過ぎると、申し込んでいた助成金申請の結果が出ました。ありがたいことに、日本財団、企業メセナ協議会、大和証券福祉財団の助成を受けられることが決まり、獅子頭と幕の製作費や太鼓の修理代などに充分な資金が集まりました。こうした小さな集落の、小さな郷土芸能の価値を認めていただいて、本当にうれしく感じました。
7月15日、16日には、五十鈴神社の例祭が行われました。例年なら神輿、子ども神輿が集落を練り歩きますが、今年はがれきだらけで神輿を担げる状態ではないので、神輿も太鼓もそれぞれ軽トラックに積み、神主さんを先頭にがれきの集落をまわりました。
夏の終わり頃になると粘土の獅子頭も完成し、いよいよそれを基に木彫りが始まりました。材料となる桐の木は小渕浜のはずれにある製材所からの寄付です。
木彫りの時にも、私や後藤さん、阿部さんは何度も足を運び、時には手伝い、時には「ここをもう少しこうしたい」という要望を出したりしました。作業はいつもそれぞれの仕事が終わった夕方から深夜にかけて行われ、大変ではありましたが、こうした時間が「小渕浜の獅子舞」にするためには重要だったと思います。
木彫りが終わったのが11月の半ば。今度は漆塗りとその下地作りのために、鳴子にある佐藤漆工房の佐藤建夫さんに預けられました。
荒削りだった部分も丁寧に仕上げていただき、漆塗りまで完成したのが12月の下旬。同時に、仙台の永勘染工場にお願いしていた獅子舞の幕と、小渕実業団の半纏もできあがり、無事に準備が整いました。
例年なら正月三日に行われる獅子舞ですが、今年は15日に行うことになりました。本当なら集落の家々を一軒ずつまわるのですが、今年は集落に3か所ある仮設住宅の広場でお披露目されます。獅子舞の復活までもう少しです。
私は5月から約9か月間、小渕浜という集落に関わり、漁師たちの生活や考え方に触れてきました。そこで感じたのは、ここには自然や目に見えない神々等とともに生きるという、日本人が持っていた習わしや感覚が色濃く息づいているということです。
例えば、金物を海に落とすと縁起が悪いといわれるため、漁師たちは碇やナイフ等を海に落とすと、それは落としたのではなく「奉納」したのだという意味で、紙に落とした物の絵と日付、名前、屋号、船の名前などと一緒に「奉納」と書いて神社に貼ります。
そうした小さなことから、船の新造の際のお祓いや、神社の例祭、獅子舞まで、さまざまな習わしが生きています。
7月の五十鈴神社例祭の開催、そして今回の獅子舞の復活は、甚大な被害を受けてしまった小渕浜の人たちが、それでもここで生きていくという意思の現れのように感じます。
今回の震災で、漁業は間違いなくターニングポイントを迎えるでしょう。漁業特区が施行されて企業が入ってくるのか、漁師たちが企業体を作っていくのか、どのように変わっていくかはまだわかりません。しかし、どのように変わるにしろ、自然や目に見えない神々等とともに生きるという感覚は無くしてほしくないと思います。そこには豊かに生きるということのヒントがあるように感じてならないからです。
そのような意味でも、今回の小渕浜の獅子舞の復活は、まったく無名の郷土芸能ではあるけれど、日本という国のかたちを考える上で、大きな意義があったと思います。
東日本大震災で、まだ復活できていないこうした小さな郷土芸能は多々あると思います。それらの郷土芸能が、この小渕浜の獅子舞の復活を参考に、再び集落の誇り、象徴となることを祈ります。
(2012年1月5日)
[1月16日 ネットTAM運営事務局追記]
コラム文中にあった1月15日の獅子舞が無事行われたと、佐藤さんから写真が届きました。
神社で獅子頭に神を入れ、奉納の獅子舞の後、集落に3か所ある仮設で獅子舞が披露されたそうです。たくさんの人が仮設から出てきて獅子の復活を喜んでいたそうで、「感動した、というより、私も団長も副団長も、ホッとした、責任を果たしたという感じです」と佐藤さん。お疲れ様でした。
1月16日の読売新聞に「<獅子振り>仮設住宅に 宮城・石巻」の見出しで記事が掲載されました。
関連リンク
小渕浜通信 (http://www.kobuchihama.com)
2011年5月、小渕浜への物資支援を始めると同時に発足。「支援者も精神的に被災している」という考え方のもと、被災者への支援と同時に支援者にも支援の実感を得てもらうために始めた「小渕浜通信」をそのまま団体名にした。「小渕浜の獅子舞復活プロジェクト」の他、漁業支援の「小渕浜ふるさとプロジェクト」を中心に漁業支援を行っている。代表:佐藤敏博。
ネットTAMメモ
小渕浜では、獅子舞の復活と震災3か月後の五十鈴神社例祭開催について住民アンケートが実施され、圧倒的多数で決定したという事実を、佐藤さんの寄稿で知りました。「それでもここで生きていく」というタイトルが、一層心に迫ります。
集落に根差した郷土芸能が、そこに暮らす人々の「生きていくこと」と日常的に深く結びつき、生きる気持ちをどれほど奮い立たせるのか、東日本大震災発生後、東北各地の多数の事例で知ることとなりました。壊滅的な被害を受けた漁業のまち小渕浜でも、港の復興と漁業再開の見通しが立たないなか、漁師たちの心をつなぎ留め、力を合わせるには短期的な目標と「誇りと心の復興」が必要でした。それが集落の誇りであり、生活とともにあった獅子舞の復活だったとのお話は、震災復興に果たす文化の可能性を考える上で、被災した現場からの大事な証言だと思います。
復興支援において、佐藤さんのような存在がいかに重要かも実感しました。外部から支援に入っているからこそ可能な役割を果たされています。仕事で培ってこられた経験やスキルを支援に生かし、復活に必要な条件をいちはやく整えて、被災された方々とともに根気強く目標を達成していく。被災した小渕浜と外を結ぶ大事なパイプ役です。佐藤さんからは、震災後早い段階から、被災した小渕浜の状況を知らせるメールがこまめに届きました。被災地の実情を知ることができる貴重な情報源でした。そのメールのタイトル「小渕浜通信」は今、プロジェクト名となっています。
佐藤さんのコラムから、獅子舞復活の先には、豊かに生きることとは何か、地域の誇り、国のかたちづくりといった深いテーマが存在することを、教えていただきました。下記リンクもぜひあわせてご覧ください。
3がつ11にちをわすれないためにセンター(せんだいメディアテーク)
宮城県石巻市小渕浜のページ
(五十鈴神社例祭、佐藤敏博さん、小渕浜実業団副団長・後藤晴人さんインタビュー)