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アートの社会的機能、役割について


独特な存在〜リアス・アーク美術館

 リアス・アーク美術館は宮城県気仙沼市の高台に位置する。気仙沼市と南三陸町が管理運営する公立美術館であり、1994年に開館、今年20周年を迎える。私は開館直前からそこで学芸員を務めてきた。
 バブル崩壊とほぼ同時期に開館した当館は、その後安定した状態での館運営を経験することのないまま、極めつけとも言える東日本大震災被災という難局を迎えた。地域経済が低迷するなかにあっては最も無駄と判断されがちな文化行政、特に美術館運営の舵取りを担うことは、決して簡単なことではなかったが、そのようななかで取り組んできた活動が糧となり、当館は震災後再開することができた。
 転換期は2000年だった。当時、当館は財政的問題から館運営が困難となりつつあり、その対策としてソフト面の抜本的な改革を余儀なくされた。

リアス・アーク美術館外観
リアス・アーク美術館外観

 当館には開館当初から地域の歴史・民俗資料が常設展示されていたが、「押入れ美術館」と銘打たれたその展示は、地元住民からは全く評価されず、われわれにとっても扱いに苦慮する存在だった。それまで機能していなかった常設展示を有効活用するため、私は「食を通して地域の歴史、民俗、生活文化を紐解く」というコンセプトで新しい常設展示をデザインし「方舟日記」と命名、リニューアルオープンした。地元の博物館がその地の文化を語るならば、地元民が誇りを持っているものを中心に据えるべきである。気仙沼地域の場合、それは"食"だった。

常設展示「方舟日記」
常設展示「方舟日記」
常設展示「方舟日記」:手描きイラスト解説パネルが特徴。
常設展示「方舟日記」
手描きイラスト解説パネルが特徴。
画:山内宏泰

 常設展示「方舟日記」は地元で高く評価されるようになり、この常設展示がきっかけとなって、当館はまちづくりの大きなムーブメントに深くかかわる施設となった。特に、まちをあげて取り組み始めていたスローフード運動との連携は地域における当館の存在価値を飛躍的に高めた。
 気仙沼におけるスローフード運動は、地元の文化資源を食の視点から顕彰し、それを地域の産業に結びつけ、まちづくりを推し進めることを趣旨としている。この活動で文化的定義づけを管理するのが私の役割、当館の役割となっている。気仙沼市は現在スローシティーに認定されている。

スローフード運動との連携事業「まるかじり気仙沼ガイドブック」 企画・編集:山内宏泰・スローフード気仙沼 監修:リアス・アーク美術館 発行:気仙沼商工会議所
スローフード運動との連携事業
「まるかじり気仙沼ガイドブック」

企画・編集:山内宏泰・スローフード気仙沼
監修:リアス・アーク美術館
発行:気仙沼商工会議所

津波との関わり

 震災以前から、私は津波を地域文化の一要素ととらえる試みを始めていた。2006年には明治三陸大津波の実態を紹介する展覧会を企画し、2008年には同テーマで小説を出版するなど、津波災害の危機が迫っていることへの警鐘を鳴らしつつ、地域文化と津波の関係性を語り続けてきた。そして2011年3月11日を迎え、まちは壊滅的な被害を受け、私自身も被災者となった。

風俗画報大海嘯被害録より 「歌津村の某婚礼を行ふ時海嘯に遇ふの図(伊里前)」
風俗画報大海嘯被害録より
「歌津村の某婚礼を行ふ時海嘯に遇ふの図(伊里前)」

 私は震災発生直後から被災現場に出て、当館学芸スタッフ数名とともに地域内の被災現場をくまなく記録した。その目的は単に震災被害を記録することではなく、これまで築き上げられてきた地域の最後の姿を記録することだった。津波は文化まで奪い去るわけではない。ただ、再生するための手がかりを残さなければ、地域住民はそれを思い出すことができなくなる。われわれは地域再生のために、文字通り命がけで震災を記録した。

被災現場写真 2011年3月13日、気仙沼市弁天町の状況。丁度この地区は山内の自宅があった場所である。自宅がどうなっているのか確認をするためという理由もあったが、何よりも残してきたペットの安否を確認するため現場に分け入った。余震は治まらず、海面の変化も続いており、被災物からは煙が上がっている状態だった。鉄骨4階建相当の自宅ビルは、基礎からのコンクリート階段2段を残し、跡形もなく消滅していた。
被災現場写真
2011年3月13日、気仙沼市弁天町の状況。丁度この地区は山内の自宅があった場所である。自宅がどうなっているのか確認をするためという理由もあったが、何よりも残してきたペットの安否を確認するため現場に分け入った。余震は治まらず、海面の変化も続いており、被災物からは煙が上がっている状態だった。鉄骨4階建相当の自宅ビルは、基礎からのコンクリート階段2段を残し、跡形もなく消滅していた。
撮影:山内宏泰

 われわれが約2年間行った震災被害記録調査活動の成果は、「東日本大震災の記録と津波の災害史」常設展示となり、現在、当館で公開されている。
 この常設展示は被災者に厳しい内容だと指摘されることが多い。なぜなら「災害の原因は人間が生み出している。人間が変わらなければ津波災害はなくならない。われわれは地域の歴史、文化を見つめ直し、深い反省とともに、責任を持って未来を築いていかなければならない」、そういう考え方をこの展示で表現しているからである。私自身が被災者だからこそ、そういう視点でものを語れる。また被災当事者だからこそ、自らを省みなければならないと考えている。

リアス・アーク美術館「東日本大震災の記録と津波の災害史」常設展示会場風景
リアス・アーク美術館「東日本大震災の記録と津波の災害史」常設展示会場風景

震災とアート

 震災後、身近な若い作家達が、「自分たちは無力だ」というような台詞をよく口にしていた。無力感に襲われた作家たちはそこから抜け出すためにさまざまなアクションを起こした。「自分には、今までどおりつくることしかできない」と言って作品を制作し、その作品を売り、売り上げの一部を寄付するなどの支援を行う者もいた。それは素晴らしい行為だった。しかし、本当に「今までどおりに作ることしかできない」のだろうか。私は違うと感じている。
 作家たちが「無力感」を口にする背景には、やはり「つくり上げたものが全て破壊される」その無残さに言葉を失っているという現実があったようだ。つくることに対しての絶望感と言ったらよいのか、虚しさといったらよいのか、自然の力を前にしたときの人間のあまりの無力さと言ったらよいのか。その無力さを自分の社会的な無力さに重ね合わせたのかもしれない。
 私自身、作家として美術表現を行ってきたが、あの過酷な状況を目の当たりにし、今までどおりではいられないと感じた。少なくともこれから作家活動をしようとする日本人には、やはりこの現実を見て、感じて、自分なりに昇華しておいてほしいと感じた。  研ぎ澄まされた感性を持ち、感じたことを通時的、共時的にとらえつつ表現する能力を持つ者がアーティストだとするなら、その卓越した能力で震災を俯瞰すれば、おのずと表現するべきものが見えてくるはず。私はそう考えている。

収集被災物「タイル片:2012.3.30~4.20 気仙沼市・南三陸町各所」被災物は一種のインスタレーションとして展示している。それぞれに葉書が添えられ、物語が綴られている。【津波っつうの、みな持ってってしまうべぇ、んだがら何にも残んねえのっさ...基礎しかねえし、どごが誰の家だが、さっぱり分かんねんだでば。そんでも、玄関だの、風呂場だののタイルあるでしょ。あいづで分かんだね。俺もさぁ、そんで分かったのよ。手のひらくらいの欠片でも、家だがらねぇ。残ったのそれだけだでば。】
収集被災物「タイル片:2012.3.30~4.20 気仙沼市・南三陸町各所」
被災物は一種のインスタレーションとして展示している。それぞれに葉書が添えられ、物語が綴られている。
【津波っつうの、みな持ってってしまうべぇ、んだがら何にも残んねえのっさ...基礎しかねえし、どごが誰の家だが、さっぱり分かんねんだでば。そんでも、玄関だの、風呂場だののタイルあるでしょ。あいづで分かんだね。俺もさぁ、そんで分かったのよ。手のひらくらいの欠片でも、家だがらねぇ。残ったのそれだけだでば。】

"アートがこの震災の記憶を残す"という考え方

 リアス・アーク美術館はアート・ミュージアムと定義されている。なぜアート・ミュージアムが震災資料、津波の文化史を常設展示するのか、との疑問の声がないわけではない。しかしアートの意味が「世界の諸事象と人間のかかわりから生み出される人間の表現である」とするなら、現在、当館が行っている震災資料常設展示は、その本筋を外れてはいないと考えている。
 当館が公開している資料は津波災害を拡大させた歴史的背景を見つめるためのものである。そしてそれらは時代を越えて「今をどう生きるべきなのか」を考えるための歴史資料にならなければならない。
 歴史資料を単なるタイムカプセルにしてしまわないためには、その時代に適した表現方法、媒体に置き換え、人々が容易に理解し、日常に反映させられる生きた情報へと等価変換させる必要がある。その進化の後押しは表現行為の専門家であるアーティストが担うべきではないかと考えている。
 美術館が震災資料を常設展示することで、その資料がアーティストの目に触れる機会が生まれる。そして一見すると単なる自然災害としか思えない津波災害というものが、実は歴史的背景や文化的背景に起因する人災的側面を多分に持っていることに気付けば、アーティストは必ずそれを表現の課題とするはずである。
 震災が残したさまざまな課題を、単なる記録物ではなくアート作品に込めて表現したならば、震災の記憶を後世に語り継ぐことができるのかもしれない、私はそう感じている。アートにはそういう力、人の五感を刺激し、擬似的にリアリティーを感じさせながら、第三者を当事者に変える力があるはずだ。
 私は、アートの役割は「被災地、被災者を慰めること」ではなく、「この現実を表現すること」なのだと考えている。失われたものを再現する力、過ぎ去った時間を再現する力、忘れてはならない感覚を伝える力、そして人々の普通の暮らしに不可欠な美意識を顕在化する力、そういう力がアートの力ではないだろうか。
 美術的試みとして、私は東日本大震災の記録を美術館の常設展示とした。この展示は、例えるならば捕えた魚を活〆にし、仕込みを終えた〝さく″のようなものである。あとは多くのアーティストがそれを素材とし、時代に即した表現へと料理してくれる(昇華させてくれる)ことを願っている。

(2014年2月26日)

今後の予定

 平成26年度はリアス・アーク美術館が開館20周年となることから、20周年記念展として「震災と表現」をテーマとした記念展(9~11月予定)を開催する。
 4月から「東日本大震災の記録と津波の災害史」常設展示の図録を販売する。

活動データ

 リアス・アーク美術館(宮城県気仙沼市)は1994年10月に開館。運営母体は気仙沼・本吉地域広域行政事務組合。主に現代美術を紹介しつつ、地域の生活文化を普及する歴史民俗系常設展示を持つ変則的な公立美術館。
 館の基本方針は、東北・北海道の美術を中心に調査研究。それと同時に同エリアを中心とする地域文化、特に漁村文化と食文化を中心に歴史、民俗などを調査研究している。また2006年以降、津波の災害史、文化史などの調査研究、普及を図ってきた。

関連リンク

ネットTAMメモ

 東日本大震災から、それぞれの思いで過ごしてきた3年という年月。ネットTAMでは2011年9月から連載を開始し、その後さまざまな立場の方が震災に向きあい、復興に向かう思いをつづってくださいました。公開されるごとに"まだまだ"、でも確実に"一歩一歩"歩みを進める音が聞こえ、アートが担う役割のアウトラインが、時間の経過とともに描き出されているように感じます。

 リアス・アーク美術館は、地域の歴史・民俗的な資料の収集や展示、研究をする、いわば郷土の文化に根ざした美術館です。そして山内さんは、埋もれていた歴史に明かりを灯し、先人たちの足跡をきちんとした形で表現し、今を生きる私たちにメッセージを送る作業を継続されてきた方です。その中で学芸員として培われた視点と、被災したアーティストとしての立場から発せられる言葉には、確固たる根拠がありました。それはアートの本質に私たちを立ち返らせ、アートの力を実感させるとともに、この震災において、また未来においてアートの役割を確実に指し示すものでした。震災以前より津波を地域文化の一要素ととらえてきた山内さんが、数々の震災の記録から見出した課題は、決して被災された方々だけのものではなく、全人類で取り組むべきものなのでしょう。

 歩みの音がまた1つ、2つと聞こえ、"もっともっと"その音を聞くために、ネットTAMは歩みを続けていきたいと思います。

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