戦争と災害〜日常の表現
2016年2月18日から同25日まで、本サイトにも寄稿されているENVISI主催の吉川由美さんと、ポーランドに出かけた。2015年9月に南三陸で東北記録映画三部作の『うたうひと』(監督:酒井耕・濱口竜介/2013©silent voice)の上映をした際に協力していただき、その晩泊まった南三陸の宿で唐突に誘われた。
「アウシュビッツに行かない?」
二つ返事でいくことを決めた。
今回は、アッシュビッツ及び近接するビルケナウ強制収容所跡地、市民の戦いの歴史が記録されているワルシャワ蜂起博物館とポーランド・ユダヤ人歴史博物館を訪ねた。戦争という災害を扱うこれらのどの施設でも、歌を歌い、絵を描き、彫刻を掘り、芝居をするなど、芸術が困難の最中に共にあったことが記録されていた。
戦争という困難は自然災害とは異なるが、日常の暮らしを理不尽に根こそぎ奪われるという意味では共通する。人間が引き起こすのだから、ある意味自然災害ともいえるかもしれない。戦争が長引くのと同じように、自然災害も「1.17」や「3.11」と記号化されてしまうただその1日だけの困難ではない。その翌日から、それまでの暮らしや愛おしい者が奪われたままの状況が長く続き、復興という困難な戦いの渦中に身を置かざるをえなくなる。
私に何がアートかうまく定義することはできないが、「世界と人とのかかわりのもとにある表現」がアートと呼ばれるのであれば、アートと呼ばれていなくとも、日常のなかに「表現」は存在する。人は世界の一部として生きるうえで、どんな形であれ表現することは不可欠だろう。それを支える、または取り戻すきっかけとしてアートはあらゆる可能性を持つのだと思う。日常にある表現を手がかりに、アーティスト自身が、まず職業としてのアートではなく、アートを生き様として捉えることができるのであれば、日常の延長線上にある災害におけるアートの可能性は、失われた時や記憶やもの、などなどの数だけ膨大にありそうだ。表現のプロを標榜するアーティストであれば、まずはその場とのかかわりを持つ、つまり、現場に出向きその場に「耳を傾ける」ことから始めれば、あとはおのずとアーティストとしての表現は導き出されていくのではないかと思う。どうすればいいという正解はない。考える以前に、そっと現場に足を運んでみればよいのではないか。
災害・記録・表現とのかかわり
私は東北で幼少期を過ごし、多くの友人が被災した地域に暮らしていた。阪神淡路大震災のときには微塵も動けずにいたが、2011年の春には東北の沿岸部にいた。自分の無力さは痛感し諦めていた。だからこそ、この連載の冒頭で永田さんがいうように一歩踏み出せたのかもしれない。生活が根こそぎ持って行かれたのである。今考えれば現地に行くための言い訳だった気もするが、編集という自分が多少なりとも有するスキルを使い何かできることはないかと通い続けるうちに、中間支援という形のお手伝いもし、本当にさまざまな出会いがあり、『震災リゲインプレス』という新聞を発行することになった。まもなく5年経過しようとしている。震災リゲインの活動継続を決意し、2015年末にNPO法人した。2年後の認定取得を目指している。
当初は東北で支援活動をする個人や団体、地元もよそ者も含め、あらゆる「行動する人々」に感銘を受け記事を書かせてもらい、ときに中間支援として具体的なお手伝いもしてきた。2年目からは日本各地の震災にまつわる行政、企業、個人、NPOなどを取材している。取材や中間支援活動を通して学ばされ、励まされ続けているのはじつはこちらの方だということが痛感される。恩返しのための継続でもある。
中間支援の活動を続けるなかで、さまざまな立場、ジャンルの方々のお手伝いをした。アートにかかわるお手伝いも、まずアーティスト以前の「個人」との出会いがあり、いくつかお手伝いもさせていただいた。
そのひとつに、プロデューサーとして参加させてもらった『東北記録映画三部作』というドキュメンタリー映画がある。キッカケはせんだいメディアテークと東京藝術大学の共同プロジェクトとして製作された『なみのおと』という映画だ。テレビやYouTubeにあふれる映像を目にした濱口竜介監督は「行ってこの目で何が起こっているのか確かめたかった」というシンプルな理由で東北に行き、その後合流した酒井耕監督とともに数ヶ月後には「100年先までみてもらえる映画にしたい」と『なみのおと』を完成させた。
その後もまだ撮り足りないと感じサポートを必要としていた監督たちに出会いsilent voiceという「静かな声に耳を傾ける」というコンセプトで細々製作を続ける映像プロダクションで引き受けた。『なみのおと』をみせてもらい共感し、共同プロデューサーの芹沢高志に伝えると迷うことなく(多分)賛成してくれた。結果『なみのこえ 気仙沼』『なみのこえ 新地町』『うたうひと』の三本が完成し、最初の『なみのこえ』と合わせて4本が『東北記録映画三部作』となり、今も各地で上映されている。
過程と記録、反省と検証
映画の製作が災害後の困難な日々のなかにいる人々にとってどのようなものだったのか? 今後どのような役割を果たしていくのか? 私にはわからないことだらけだ。きっと長い長い年月が経っておぼろげにわかったりわからなかったりするのだろう。わからないけれど、考え続けている。そして映画は今も国内外で上映していただいている。日常の延長線上にある震災が監督たちの表現を通して、距離や時間の遠く離れた、今を生きる人々の暮らしに投影されていることを願う。
実施されたほかの数多くのアートプロジェクトも、アートプロジェクトではないさまざまな活動も、5年経過した今、終了したり継続したりさまざまである。何が良くて何が悪かったのか、さまざまな議論はあるが、実際振り返りはなされた方がよいだろうと思うし、反省があるなら、未来に活かすためになんらかのドキュメントとして残し検証されたらよいと思う。
振り返り、反省し、検証できるのもすべて、行動を起こしたからこそだ。
映画の上映会をどこかでしたときのことだったと思う。監督たちは、『なみのおと』や『なみのこえ』を撮影する際、まずはカメラを持たず話を聞かせてもらうために通い、多くの話を聞き、人としての関係を築いた後、はじめてカメラを携えて出向き、独特のアングルで親しいもの同士の会話を撮影し、編集した。編集した映像も被写体にしっかり見てもらい、本人たちが望まない部分はカットし、また見てもらい、と、とにかく丁寧に制作を続け、映画という不特定多数の人に時間も場所も超えて見られることの危険性やカメラの暴力性も真摯に伝え、納得してもらい映画にした。そんな、配慮のプロセスを監督たちが語っているときに、小野さんがポツリといった。「それは自分たちの責任逃れのためにしていることなの? どれだけ説明されても素人にわからないことはわからない。それで傷つくことがあっても、説明したでしょう、といえばすむと思っているのかしら?」。
答えは、「すまない」だと思う。監督たちも知っている。2人の監督が『東北記録映画三部作』の制作から得たものは計り知れないと思う。
肯定すること
本来私たちはちっぽけで無力なはずなのに、何か特別なことをしてもしなくても自分が存在する限りどうしてもなんらかの形で世界に作用してしまう。孤独なのに孤独でいられない。良い悪い含めあらゆる可能性のなかに私たちは日々生きている。良い悪いという判断も正解は1つではなく、受け手にもよるので簡単ではなく厄介だ。
であるならば、東日本大震災で不安を抱えながらも衝動にかられ東北に出向き行動をとったすべての人々を私はまず肯定したい。生き物として突き動かされたその感覚を大事にしてほしい。ただ、そのことで生じる現象を、引き受けきれるかどうかは別として、可能なかぎり自分自身で受け止める覚悟(または諦め)は大事だろう。それは特別でも、勇気のいることでもない、普段生きていることの延長線上にある。日々生きているかぎり、自分の存在はインパクトを与えてしまう、その実感とともに生きていくしかない。喜び喜ばせ、傷つき傷つける。実際まずいこともいろいろあっただろう。でも、動いたからこその反省であり、未来につながる貴重な活動も数多く生まれた。可能性という言葉がマイナスに作用し、何かを閉ざすものであってはほしくない。私自身、情けなくもたくさん反省し、苦い思いもしながら今がある。
生きていくには、大きな諦めとともに、生きていることそのものを肯定しなければ生き続けることが難しい。だから、生きている人すべてを肯定するだけの曖昧さや多様さ、弱さとともにありたいと願う。強いね、といわれることがある。まったく逆だ。とても弱い。弱いから、共に生きていこうと努力するし失敗もするし許し許される。それは、日常の生活であたりまえに大切で、防災、減災、復興文化の根本にあってほしいと願う。
「聞くこと」から
災害におけるアートの可能性という問いにこんなにたくさん文字を割いてもとても応えきれたとは思わないが、東北という地に育てられたものとして、遠くから足を運んでくれたすべてのアーティストにこの場を借りて心からお礼を伝えたい。出向き、耳を傾けてくれることが大切だと思う。実際多くのことはできず、結局被災地や被災物、被災された人々から多くのことを学び、その後の生きる糧を得るのは足を運んだ側だと常に思う。困難な経験やその共有は辛いことだが、同時に生きる力につながり、先々の災害でまた生かされるだろう。だから、アーティストだけでなく少しでも多くの人が、今からでも彼の地に出向き、5年経過しても今尚、さまざまな困難の渦中にある人々の声に耳を傾けてほしいと願う。
正解はない。失敗したら頭を下げ反省し出直したらいい。じっと動かず考え続けるのでもよいし、考えなくてもよい。今、それぞれなりに生きていているのであれば、それがすべてだ。欲をいえば、自分ごととなるかもしれない次なる災害に、日常のなかで備えてくれていればいい。
ポーランドにて、強制収容所やゲットー、ワルシャワ蜂起で、亡くなったたくさんの人々の生きた記憶の記録を見た。また東日本大震災や阪神淡路大震災、中越地震、岩手・宮城内陸地震の取材を通し多くを学んだ。ポーランドでも日本でも、困難を経験した後、今を生きる人々の声を聞かせてもらいながら、亡き友を思いながら、私はいま、大切な家族や友人と生かされている。
たった数十年の短い人生。
みんな、無事で生きていてほしい。私の願いと活動の原点はバカみたいに単純で、本当にそれだけ。聞き、語り、表現することができるのも、生きていればこその喜びだ。
(2016年2月29日)
今後の予定
京都で震災リゲインの記憶の記録のプロジェクト「リコレクト」の展示とお茶っこ(おしゃべりするば)を開催する予定です。詳細が決まりましたら、HPやSNSでご案内します。
*3月20日に『震災リゲインプレス』16号が発行されました。購読ご希望の方はお問い合わせください。
ネットTAMメモ
今回より「震災復興におけるアートの可能性」は「災害におけるアートの可能性」として大きく枠組みを広げ、新しくスタートします。前回、ニッセイ基礎研究所 芸術文化プロジェクト室の大澤寅雄さんとプラス・アーツ永田さんとの対談で、“震災”から“災害”、そしてそれにプラスして“防災”といった新しい視点を本コンテンツにもたらしていただきました。東日本大震災がきっかけとなり考え始めた“アートの可能性”。16回にわたってご登場くださった方々と、読者の方々の想いを種にして、社会全体にかかわるアートの可能性を“災害”という新たな展開のフェーズから考え続けていきたいと思います。