論考「アートプロジェクトをやわらかく、編む」
オフライン形式の集中講義・TAMスクールは、アートマネジメント(アートプロジェクトの管理や進行)がまさにいまどのように変容しつつあるのかを可視化することを目的に、6月19・20日の2日間に東京で開催された。前線で取り組まれている5人のマネージャーを講師に招いて、現場で感じている実践や課題を参加者とともに議論した本プログラムは、「タテ・ヨコに編まれる次代の"アートマネジメント"」と題された。
TAMスクールを聴講した29人の参加者は、表現ジャンルにおいては美術、音楽、演劇と、そして職種においてもギャラリスト、プロデューサー、コーディネーターと、実に多様だった。と同時に、スクールのタイトルで用いた「タテ・ヨコ」という抽象的な言い回しの受け取り方もまた多様で、"タテ"を上意下達の権力構造やスポンサーとの資金の流れと解釈する者がいれば、プロジェクトを取り仕切るアーティストと制作スタッフ、とする者もいた。一方で"ヨコ"については、編集者やデザイナーといった制作スタッフ同士や、音楽・演劇・美術といった他ジャンルとの接続と受け取る者がいた。
そのうえで、スクールの後半で行われたシンポジウムでは、「ヨコのつながりのコミュニティをつくり、情報交換をしたい」「いろんな人の考えをじっくりと聞きたい」というタテ・ヨコの関係性の必要性を実感する声だけでなく、「事業や予算ができても、そのコミュニティのモチベーションがどこにあるのかわからなくなることがある」「共感できないという前提でコミュニケーションしたほうがいい」といった課題も聞くことができた。
筆者個人でいえば比較的美術に偏った分野でプロデューサーとして日頃仕事をしているが、閉鎖的なタテ方向のみの関係性でアートプロジェクトをつくるのではなく、ヨコ方向に多様な刺激を与え合いながら構築していく......そういったプロジェクトの成り立ち自体の変容を他ジャンルのプレイヤーたちと共有することができたのは、一つの成果に感じられた。
従来から多く見られていたタテ方向の関係性──たとえば、アーティストやプロデューサー、スポンサーが制作アシスタントやスタッフに対して依頼し指示する場合のような、上下や受発注といったマネージ[manage]の力関係──だけでなく、ヨコ方向の関係性──スポンサーとプレイヤー、アーティストと鑑賞者、制作スタッフ同士といった関係者が(主従関係でなく)対等にそれぞれの得意領域でプロジェクトに貢献し協働していく関係性──が、近年さまざまなプロジェクトで散見されているように感じられている。そこでは、それぞれに確立した視座はありながらも自由に議論がされる。タテ方向の主だったアートプロジェクトが分業によるツリー構造の関係性なのに対し、そこにヨコ方向も加わることで、まるで織物のようにタテヨコに関係性が編まれて[編む:woven]いる。
つまり、アートマネジメント[art manage + ment]は「アートウーブメント[art woven + ment]」とでも呼ぶべきものに代わろうとしいているのではないだろうか。
社会に実装されるアートプロジェクト
上記のような変容の背景は、社会全体を踏まえてもいくつか言及することができる。2017年に施行された文化芸術基本法では、文化芸術がそれ自体で表現力を高めることを目指すだけでなく、国際交流や教育、福祉、産業といった社会的営みとつながり、関与していくものであることが明言されている。これらは2000〜2010年代に全国的に広がった地域芸術祭が、多分に純粋な表現性だけでなく、行政との結びつきの中で移住促進による地域活性や観光による経済の刺激といったことも目指されていたことに、わかりやすく例示される。
また、象徴的な意識変容としては2011年の東日本大震災も言及したい。甚大な被害によって多くの地域住民が基本的な生活を送ることが困難になってしまったことを受け、アーティストたちは積極的な社会への貢献、あるいは接続を働きかけた。『美術手帖』2015年1月号は「建てない建築家とつなぎ直す未来」を特集に掲げ、建築物ではなくコミュニティを被災地につくることで、人間性の回復を訴えようとした建築家たちを紹介した。そこで見られたのは、建築家と依頼主というシンプルなタテ方向の関係性ではなく、住民やボランティア、サポートスタッフといった多様な関係性とその中に入っていく建築家の姿だった。
目的が多層化し、関与者が多様化する。アートプロジェクトの両輪たるこの変容によって、それに伴う関係性もまた自然とウーブメントへと移行していったのではないだろうか。
アートウーブメントの5つの特徴
では、多様に編まれたアートプロジェクトには、どのような特徴が見られるのだろうか。多様であることが目的ではなく現象に過ぎないとき、その特徴を少しでも可視化しようとすることで、解決すべき課題や可能性もまた見えてくるのではないだろうか。5つに分けて、言及したい。
①個人の役割が分人化する
アーティスト、制作スタッフ、スポンサー、地域住民などプレイヤーが多様化し、分業ではなく有機的にコミュニケーションが広がっていくアートウーブメントでは、その一人あたりの役割も複数化していく。プレイヤーは専門性のある視座を持ちながら、さまざまな事象の議論に参加していくだろう。たとえばあるプロジェクトに参加する企業人は、スポンサーでもありながら参加者でもあり、広報的な役割も兼ね、分人的に立ち振る舞う。各々の決定事項や打合せによってかかわり方や影響力、時にはキャラクターまでもを使い分けて、それぞれの視座からプロジェクトの発展を目指す。
金森香はファッションブランド「THEATRE PRODUCTS」やアートイベント「Spectacle in the Farm」を通じて、広報、営業、企画、予算管理......と肩書にとらわれずプロジェクトをタテ・ヨコに浮遊してきた。講演では、それが客観的な視点で異なる常識を持つ人とコミュニケーションの化学反応を起こすため、と言及され、視野を広げようとすることで結果的に役割が複数化していったことがうかがい知れた。
②デジタルがリアルのヨコに並び、有機化する
これまでアートプロジェクトとそのマネジメントは主としてリアルで行われ、デジタルはそのアーカイブあるいは情報補完のためのものとして位置づけられることが多かった。DX化の進むニューノーマルでは、リアルとデジタルは対等に進んでいくことは間違いない。多くの人が体験したようにプロセスにおける打合せや会議はデジタル中心になり、その発表形態もウェブサイトなどの比重が数的にも意義的にも増すだろう。また、デジタル化することによって遠方との協働が容易になり、プレイヤーの文化や背景が多様になるだろうことも指摘したい。
野田智子が企画したアートプロジェクト「Aichii⇄Online」ではウェブサイト上で短編映画や音楽ライブ、パフォーマンスなどが発表されたが、どれも(リアルのアーカイブとしてではなく)デジタルならではの表現が目指されたものだった。映像や画像を駆使し、(合理的なツリー構造ではなく)有機的なインタラクティブ性を提供することで、展示会場を自由に周遊しているかのような感覚を与えた。中心的なプロジェクトチームの中にウェブディレクターがいたこと、その一方でディレクターが不在となり、未来の見えにくいコロナ禍でトップダウン的な構造ではなく、共同で思考し実践する共同体[コオペラティブ(cooperative)]として企画が行われたことも、アートウーブメントを象徴する非常に特徴的な点だった。
③距離感ーのインクルージョンとレジリエンス
VUCAと呼ばれるような不確実に変容し続ける状況下において、アートプロジェクトにかかわる環境や向き合い方は変わり続けるだろう。一つのプロジェクトへの専心を要求されたり、プライベートの犠牲を伴う全力投球が是とされた風潮ははたらき方の変化と同様に減る。移住、出産、関心分野(アートウーブメントによるヨコのつながりは他分野からの刺激も生み、興味関心を多面体的にするだろう)などの変化を受け入れ、個々人にとって適切な距離を取り続けるかかわり方が増えていく。アートウーブメントに求められるのは、多様な価値観や目的を包摂するインクルージョン[inclusion]と、変容し続けることに対応するレジリエンス[resilience]といえるだろう。
山口佳子は自身が代表を務めるNPO法人alfalfaを通して、ライフステージの変化や関心の度合いに合わせた、プロジェクトへの多様なかかわり方を訴える。プレイヤーをアーティスト・スペシャリスト・ゼネラリスト・観客という4つの深度に分類することで、専門性や個人の状況に応じた適切なプロジェクトとの距離感を提案。育児で業界から一度離れた者や、大学の実習生や教会のコミュニティなど、多様な環境のプレイヤーを包摂することを目指している。
④わかり合わないコミュニティ外との共存
コミュニティとはある属性を共通する人々の交流やつながりを指すが、その一方で逆説的に、そのコミュニティからあぶれた人々との分断を生むことも意味する。これまで"コミュニケーション"とは主にコミュニティの内側での現象を指し、外側の"説得"は"プレゼンテーション"と対義的にされてきた。多様なプレイヤーのつながりを生むアートウーブメントにおいて、属性を共通しない、わかり合わない人との交流が増えるとき、外側との"共存"する技術が求められていくだろう(この"共存"とは、相手を自身の考えに同意させる"説得"や価値観や考えを同意する人のみで閉じる"共通"とも異なることを強調しておく)。言語化とは物事を定義することでそれ以外のものを分断し、差別化していくことでもある──とするとき、コミュニケーションの主な構成要素となるはずの言語表現は、分断を生むことも少なくない。背景を共有するコミュニティ内でのコミュニケーションには有用だが、コミュニティ外においては分断を強調することにもなりかねないだろう。特にアートプロジェクトという非言語コミュニケーションを構築していく際には、曖昧につなぐことや抽象と具象を行き来させることが、重要となるはずだ。
田村かのこがコミュニケーション・デザイン・ディレクターを務めた札幌国際芸術祭2020では、会期の1年以上前からワークショップやトークイベントが企画され、市民に"ゆっくり"知ってもらう機会が提供された。またその際に、アーティストも含めたプロジェクトメンバーは"聞くこと"を強く意識し、指示や誘導をせずにていねいに声を集めていくことに留意した。そうすることによって(アートに関心のない人も含む)多くの市民と原体験を構築し、アートプロジェクトへの関心を醸成していった。
⑤ビッグ・パーパスとイーチ・パーパス
これまでを振り返り、アートウーブメントの多様な目的と状況、プレイヤーたちをつなぎとめるものは何だろうか。昨今、規模や集客数といった資本主義的な目標に偏重することは疑問視され、またワントップ的に一つのゴールを大多数で目指し続けることも困難になっている。変わり続ける状況の中で、プレイヤーたちが最大公約数的に多くの人と共有できる鳥瞰したビッグ・パーパス[big purpose]と、主観的かつ最小公倍数的な目的とするイーチ・パーパス[each purpose]の両者を共存させることが、アートウーブメントには求められるだろう。代表的なビッグ・パーパスの例には、社会課題の解決が挙げられる。環境や気候問題、貧困や平和問題、ジェンダーなどのソーシャルイシューに対して、いま多くのアートプロジェクトが応えようとしている。SDGsをコンセプトにするアート作品を多く展示した、2021年5月開催の北九州未来創造芸術祭はその一例だろう。かつ、個々人の目的として「好きなアーティストのプロジェクトにかかわる」「地域とのつながりをつくる」「無理せず楽しむ」といったイーチ・パーパスも重要となる。これまでも、コンセプトやテーマといったかたちでビッグ・パーパスが提示されることや、イーチ・パーパスが一人ひとりのプレイヤーに密やかに内在されていることも少なくなかっただろう。しかし、ビッグ・パーパスが提示されながら、個人の目的もまた共有され議論されることで、アートプロジェクトが積極的に多面体的になっていく。そういったケースはまだ多くはないように思われる。
清宮陵一は"隅田川"という地縁(土地をなかだちとする社会的な関係)をアートプロジェクトのビッグ・パーパスに据えることで、老若男女やさまざまな住環境の人(隅田川流域は東京都7区に跨り、多様といえる)、や国籍など文化背景の異なる人をつなぐことを、実現している。そして自身もまた「子どもの幸福度を上げる」「音楽を通したコミュニケーションづくり」といったイーチ・パーパスを抱えながら、ゆるやかに合奏することで"共存"を可能にする音楽によって、多くのプレイヤーを包摂しているのだ。
私たちは、日常的に絵文字やアイコンをコミュニケーションに用いる。LINEでスタンプを送り、メールに絵文字を使い、slackでアイコンを押す。これらが浸透している背景には、もちろんテキストを入力する手間が減り簡便であることもあるが、コミュニケーションのピントが塩梅よく甘いこともあるだろう。言語化しにくい感情を画像に乗せ、ときに発信者と受信者の解釈も曖昧なままつながりを成立させている。もう一つ例を出そう。私たちは第二外国語同士で他者とコミュニケーションをとるとき、聞き取れた単語から何となく「このあたりの意味をいいたがってるな」と類推し、知っている簡単な単語でざっくりと伝える。そして相手もまた類推し、曖昧に歩み寄ろうとする。
タテ・ヨコに関係性を編みアートプロジェクトをつくっていくアートウーブメント。それは、絵文字や第二外国語のように、曖昧に抽象化しながら歩み寄っていくコミュニケーションのようだ。プレイヤーの役割、リアルとデジタル、プロジェクトとの距離感、コミュニティの内外、そしてパーパスといった諸要素の具象/抽象を有機的にグラデーションさせながら、プロジェクトを制作していく行為。それはアートマネジメントに代わる言葉である一方で、プロジェクト管理やチームビルディングといった類の方法論・テクニック論ではない。所属や役割、さらには言語に留まらない次代のコミュニケーションのあり方を示唆しようとしているようにも感じられる。