雪・冬・北方圏の二回目のわたし
十勝・帯広で開催された国際現代アート展「デメーテル」の仕事をきっかけに、2001年に北海道帯広に来て1年間を過ごし、翌年10月の終わりに札幌に来た。その時点ではまだ「移住した」つもりはなくて、芸術祭の仕事を経てやり残したことが多すぎると感じて居残ったというほうが正しい。気がつくと足掛け17年、生まれたての子どもがティーンエイジャーになるくらいの年月か、と考えると失神してしまいそうだ。芸術祭事業というのはいつもなんだか隕石のようにやってくるのだけど、デメーテルという隕石に乗って北海道に突然やってきてそのまま、家族も友人もいない新しい場所のはずれでアーティストとのびのびと活動をしてきた。札幌でnpo S-AIRに参加しながらアーティスト・イン・レジデンスのフィールドに集中していき、Trans Artists(オランダ)、アーカスプロジェクト(茨城)、さっぽろ天神山アートスタジオとAIRを渡り歩くことになる。この場所に来るまで、北海道、札幌について私は何も知らなかった。北方領土はなんとなく日本海側にあるような気がしてたし、帯広と札幌はせいぜい東京と横浜くらいの距離感かと思い込んでいたくらいの無知であった。かわいくいうと生まれたての赤子同様に真っ白な状態だった。私に「新しい場所」について教えてくれたのは、アーティストやかかわったプロジェクト群だった。岩井成昭のプロジェクトから、アイヌ民族の存在と環境を知ることに始まり、耐えられないほど辛かった札幌の冬と雪は、オランダのアーティスト、カミーユ・フェルシュフーレンらと継続的に実施したSapporo2 projectで完全に踏破した。場所の歴史と表層については韓国のサンヒ・ソンと。ほかにもたくさんのアーティストとこの場所のさまざまな断片を、時空を飛び越えながら一緒に見つけ、一緒に歩いた。よくも悪くもアーティストに育てられたようなものだ。
「札幌の人々にオリンピックについて話しを聞けばきくほどぎこちない気持ちになる。だれもが口を揃えて『成功の記憶』しか語らない」と1972年の冬季オリンピック札幌大会をリサーチしたドイツのイナ・クォンはいった。確かに、あのイヴェントをうまく活用して「足りないものを整備して」人々を幸福にしたと思う。でもこの46年の歳月で人々も札幌も、社会も、世界も変わった。それにしても見回すと札幌という場所は今でも70年代の味わいが残っている。1972年の札幌大会開催はこの場所の文化芸術活動においても重要な出来事である。札幌はオリンピックの国策を活用して飛躍的に都市化をとげることになる。地下鉄、道路、鉄筋コンクリートのビルディングなどハードのインフラ、文化施設建設計画もマスタープランに描かれていて、現存する公立文化施設、美術館が後日整備され、札幌の「美術館の時代」が始まる。
札幌・北海道のアートシーンはアーティストが友人や同窓のグループで「自分たちで」展覧会事業を開催するといった活動が特徴なのだが、これら札幌のアートシーンに、アーティストらの運動のみのりともいえる美術館が加わり新たな軸となった。2000年前後の国内のアートプロジェクト、アーティストイニシアティブの胎動前に、札幌では8号倉庫というオルタナティブな活動がおこり、のちに都市計画、建築家とアーティストが運営するプラハプロジェクトの活動が札幌のうちと外のアーティストの往来を活発にしていた。
いわばバブバブ期の私が移動してきたころの札幌のまちは一律に薄明るくて影がないという印象だったのだけど、2012年に札幌に舞い戻ったときには、以前の私には感じることができなかった濃淡が現れていた。今日本国中で地域アートや地域芸術祭事業が開催されているが、札幌ではアーティストの芸術祭をやりたい運動もあり、行政が主体となって国際芸術祭事業(以下、SIAF)が始まった。当時、学生だった若いアーティストがもっとも活動的な世代へと年を重ねていたし、当時の市長の方針もあって公的資金が投入される事業が増え、アートシーンは活気づいているように見えた。そこに近代、ポスト近代から現代への意識の転換を促すSIAFが加わることになる。かつてオリンピックに札幌の人々が一斉に夢中になったような、ポジティブな反応を大きなイヴェントが引き出すことはできないだろう。ただそれが今日的な反応だ。大きな動きがあり、小さな動きもある。サイズに関係なく同列に存在する。現代は多様な動きと反応があたりまえに同時に存在していて2回目のSIAFはこの様相を忠実に描いていた。「中央による」集約が不可能なのである、私はこの状況がすきだ。同じ方向を向かなくてもいい、なにもかもが成功しなくていい、失敗もある。ひとつのチームじゃなくても、そもそも所属しなくていい。多様さに不安になり、センターがほしくなるかもしれないけれど、それはだれかに責任をとってもらいたいからにすぎない。政府によって建設されたまちがようやく手に入れた権威の対局にある人らしさ、自律的な活動、文化的な成熟をどうかこのままにしておけますように。オリンピックで、または文化プログラムで地下鉄や、道路や橋の代わりに、目に見えないソフトなインフラは構築される。目に見えない橋や道路のようなもの、人と人のネットワークを通じて、新しいものの見方、考え方、再構築するための突破口など、次の営みのための、往来のための基礎をもたらす。また、大きなイヴェントにかかわって、移動が促され、人と出会って、生まれ直す人もいるだろう、わたしがそうだったように。
なんて、たった一晩でまちをくるりと包み込む雪の中、札幌のはじっこで妄想する。
(2018/12/06)