経済波及効果
文化政策における「経済波及効果」とは何か
はじめに:「経済波及効果」とは何か
この小文では、「経済波及効果」について比較的わかりやすく解説した資料を参照しながら、文化政策における「経済波及効果」について考えてみたいと思います。
1つの事例として、2020年オリンピック・パラリンピック競技大会の日本開催に伴う「経済波及効果」を東京都が試算[*1]していますが、その結果として、東京都で約1兆6,700億円、その他の地域で約1兆2,900億円、全国総計で約2兆9,600億円があるとされています。ただし、ここで言う「経済波及効果」とは、「生産誘発額」のことです。
この「生産誘発額」とは、以下のように説明されます。「消費額や投資額は、なんらかの産業部門に対して支出されます。その各産業部門には、支出額に相当する生産額が誘発されます」[*2]ということです。この説明を、より噛み砕いて説明してみましょう。
たとえば、仮に100億円を投資して劇場を整備する場合を想定してみましょう。この100億円が全額、ある建設会社に支払われたとして、経済波及効果はこの建設会社だけで終わってしまうのでしょうか? いいえ、そうではありません。この建設会社は劇場を建設するために、資材をいろいろな企業から提供してもらう必要がありますので、経済波及効果はこれらの企業にも及びます。さらに、これらの資材を生産・供給する企業もまた、それぞれの事業活動を展開するうえで、いろいろな企業と取引しているわけです。そしてこうした支払いの連鎖はさらに続くことになります。つまり、元の100億円がいろいろなかたちで日本中の、ひいては世界各国の企業に波及していくことになるのです。そして、このようなお金の流れを全体としてみると、元の100億円が結果として2倍にも3倍にも生産を誘発していくことになります。この説明からご理解いただけるとおり、ある投資を元にして、それがさまざまな産業の生産を誘発した総合計が「生産誘発額」と呼ばれるものであり、一般的に「経済波及効果」と言われるものなのです。
ここで説明したような「生産誘発額」を試算するために使用されるのが、「産業連関表」です。この「産業連関表」とは、「ある地域内の1年間の経済活動について、産業間や産業と消費者などとの財・サービスの取引関係を一覧表にまとめ、地域内の経済循環を明らかにしたもの」[*3]です。そして、国(総務省)では5年に一度作成しており、2014年6月現在で最新版は平成17年表[*4]となっています。
文化政策における「経済波及効果」の意義と課題
では、文化政策において経済波及効果を算出することには、いったいどのような意義があったのでしょうか。
1つには、文化(政策)はけっして「カネ食い虫」ではなく、経済的にも効果があるという点を表明できたことは大きな意義があったと考えます。言い換えると、経済波及効果の算出は、文化政策に投資することの「正当性」の論拠になったということです。かつて、文化政策は経済産業分野とは無縁であると思い込まれていた時代が続いていました。そうした中、梅棹忠雄監修『文化経済学事始め 文化施設の経済効果と自治体の施設づくり』(1983)およびその元の研究である総合研究開発機構「文化施設の経済効果 国立民族学博物館をモデルとして」(1981)が公表され、文化政策における経済波及効果の研究で日本における嚆矢となりました。その後、産業連関表を使用した、文化政策分野での経済波及効果の分析に関する先行研究は多数存在しています。
2つ目として、文化政策の効果を金額換算することによって、その大きさを他の政策と比較できることになりました。そこで、施策や事業のオプション(選択肢)を比較検討したり、また、そうした施策の実施に関して国民や地域住民への説明責任を果たしたりすることができるようになりました。1990年代以降、NPM(New Public Management)[*5]が導入される中で、経済波及効果の分析は有効なツールとして認識されるようになりました。
そして3点目として、公共文化施設に関する経済波及効果は、建設に関わる投資からもたらされるだけではなく、開館後の維持・管理や、同劇場を訪れる来館者の消費(飲食や宿泊など)も生産を誘発して、経済的な効果に波及することを明確に示すことができました。このことは、文化政策が観光振興やまちづくりなど、他の政策分野と連携して総合政策へと展開する契機ともなりました。
しかし、文化政策において「経済波及効果」について語る場合、3点の大きな課題をあげることができます。そしてそれらの課題はすべて上述した「経済波及効果の意義」に見事に関連しているのです。以下において、1つずつみていきましょう。
1点目は、文化政策のうち、特にアートイベントの経済波及効果に関しては、イベントの副次的な効果として、来場者による観光(宿泊など)や飲食を元にした効果も含まれている点です。ただし、ちょっと考えてみればすぐに理解できることですが、こうした観光や飲食という経済波及効果は、別にアートでなくても良いわけです。たとえば、スポーツイベントやその他の分野のイベントでも同様の試算が可能となります。ではもしも、投資が同規模と仮定して、スポーツイベントの方が集客数や経済波及効果は多いと期待される場合、アートイベントを取りやめて、スポーツイベントを開催するべきなのでしょうか?
2点目は、文化政策の効果を金額換算することによって、その大きさを他の政策と比較できることになったという点に関してです。しかし、こうした比較をした結果、文化政策ではなく、その他の政策分野の方が、経済波及効果が大きいという結果が出てしまう懸念もあります。実際、ある文化会館と(その他の一般的な)公共工事の経済波及効果を比較した研究によると、文化会館による経済波及効果は公共工事よりも劣る、という結果も出ています[*6]。では、こうした試算が出た場合、文化施設の建設を中止して、その予算を一般的な公共工事(たとえば、道路工事など)に振り替えた方が良いということなのでしょうか? もちろん、そういう短絡的な結論を出すことは間違いなのですが、要するに、「経済波及効果」というツールをうかつに扱うと、足元をすくわれてしまうことになりかねないということです。
3点目はより根源的な問題となります。上述した通り、経済波及効果を試算することによって、文化(政策)はけっして「カネ食い虫」ではなく、経済的にも効果があるという点を表明できたこと自体は良かったのですが、こうした経済的な効果は、そもそも文化政策にとっては、事業による間接的・副次的な効果であり、本来の目的ではないのです。と書くと、「えっ、そんな理屈、小学生でもわかりますよ」と思われたのではないでしょうか? でも実際の政策議論においては、たとえば、経済波及効果を含めて、公共文化施設の収支が合うことを目標にするべきといった、文字通り「本末転倒」な議論が登場しています[*7]。ここまで説明してきたとおり、経済波及効果の試算には、文化政策本来の目的が組み込まれていないのですから、その結果をもとに、経済的な波及効果の大きさを価値基準として文化政策(事業)の是非や実施方法について語ることは文化政策をミスリードしてしまうことになるのです。
なお、誤解のないように念のため申し上げておきますと、筆者は「芸術文化に経済的な効果を期待することは、芸術文化の本旨に反する」という批判をしているわけではありません。それどころかむしろ、芸術文化が経済的に効果を持つことはもはや自明だと考えており、芸術文化の経済的な効果が期待できるのであれば、それを活用することはむしろ望ましいと考えています。ただし、経済的な効果を重視するあまり、本筋を踏み外した政策議論をしてはいけない、ということを申し上げているのです。
おわりに:文化政策の真の価値とは
では、私たちは今後、文化政策の効果をどのように考えていけばよいのでしょうか。この小論では2つの方向性を提示してみたいと思います。
1つは、文化政策による非金銭的な効果の分析という方向性です。たとえば、アートイベントを開催することによって、地域の「ソーシャル・キャピタル」は高まるのか、といった研究は、これからより重要になるでしょう[*8]。
2点目として、文化による現在の社会システムの変革に関する研究もこれから重要になると考えます。前述したとおり、経済波及効果の分析に使用される「産業連関表」とは、現状の(より正確に言えば「直近の過去における」)産業間の結びつきを表現しているものです。ただし、文化の持つインパクトとしては、本来は、こうした現状の「産業連関」自体を変革していくクリエイティビティが求められているのではないでしょうか。
1964年の東京オリンピックにおいては、「デザイナー」という存在が社会から注目され、職業として確立したとされています。2020年に新しいオリンピックを招致する日本では、たとえば、アートが新しい経済の一分野として「産業連関表」に登場することなるといったように、文化を通じた社会システムの変革が求められているのではないでしょうか。
これからの文化政策における「経済波及効果」の分析は、こうした点を勘案して、より高次なレベルに進化することが期待されているのです。
(2014年6月22日)