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コミュニケーション型アート


釜ヶ崎オ!ペラ 8時間におよぶ釜ヶ崎芸術大学の成果発表。即興力とあたたかさに定評がある。©中川あい

関係性をゆたかに展開させるアートの取組みを「コミュニケーション型アート」というのだと思う。このことばに類するものとして、思いつくのが「コミュニティアート」だ。また1990年代後半からあらわれた「リレーショナルアート(関係(性)の芸術)」も思い浮かぶ。両者とも、作品の制作者と鑑賞者の関係をさすのではなく、ある状況や出来事の過程に人々が参与・参加すること、すなわち関係性を本領とする。

このとき立ちどまって考えたいのは、関係性とはなにかということだ。
人と人との間。自分にとってわかりやすい人や、考えの似た人との間だけではない。考えや立場、言語や趣味、習慣などが違っている人との間もある。人でないもの、自然、環境との間もあるだろう。もう少し広げてみる。生きているものと生きていないものの間、生者と死者との間というのもあるだろう。さらに自分自身のなかにも別の自分がいるから、自分のなかにある他者との間、と考えることもできよう。

そんな風に考えてゆくならば、関係性とは川のながれのように、状況や時間によってこくこくとうつろう。ずいぶん曖昧なものだ。そう、とても不確実なものだ。

不確実な間で、アートがコミュニケーションを掲げて行なうこととはなんなのだろう。

不確実な現実のなかを生きている自分、というのがいる。芸術作品をつくるときも、鑑賞するときも、こころのなかで別の自分と対話をしている。さらに、これが芸術かどうか、作品かどうか、ということも、別の自分とくりかえし対話している。こうした過程をわざわざコミュニケーション型アートとはいわない。アートの持つ本質が、他者(性)との関わり合いだと、わたしは考える。

わざわざ「コミュニケーション型アート」と呼ぶ事態が起こるのは、現在の日本の社会がそうさせているからだろう。制度や経済、規範というものに縛れた現在において、固定化されがちな関係を揺すったり、価値をズラしたりすることに、アートが有効だと捉えているからだと思う。

わたしの現場は大阪の釜ヶ崎にある。全国からいろんな人が流れてきた寄せ場だ。そこでたくさんのことを教わった。自分の存在を認めてもらえていると心底思えたとき、はじめて人は素直に表現できるということ。
そのことに気づいたときにハッとした。
表現が大切だと言いながら、本当に表現をささえる場ーどんな人であろうとひとりひとりの存在を大切にしている場をつくることーができているだろうか、と自問自答する。
そして、そんな外側の話ではなく、やっかいで、うまく噛みあわない人の存在をどう受けとめてゆくのか、とは、自分のなかにいるやっかいな自分をどう受けとめてゆくのかと、似ていやしないか。
せっかちに決めつけず、思い込まず、ゆるやかな遊びのこころを忍ばせ、でも言いたいことは言う。
ここまで考えて、吐く息を深くする。
すこし呼吸が楽になった、ことを感じながら、そう、呼吸が楽な場をつくりたいのだ、と確認する。

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釜ヶ崎の元労働者が自らの人生を狂言に仕立てた。観客が大笑いしたときに、なにかが突き抜けた。ふたりの間の絶妙の空気をとらえた一瞬。
写真:ココルーム
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好きなことばを書いてください、と釜ヶ崎の公園で。その声を聞き、筆をとり「人生一度」と書くおじさん。
写真:ココルーム

(2015年5月18日)

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