「表現の自由」と「内容不関与の原則」
2001年に成立・施行された文化芸術振興基本法においては、前文の第四段落で「我が国の文化芸術の振興を図るためには、文化芸術活動を行う者の自主性を尊重することを旨としつつ、文化芸術を国民の身近なものとし、それを尊重し大切にするよう包括的に施策を推進していくことが不可欠である。」としたうえで、第一条(目的)・第二条(基本理念)では、「文化芸術に関する活動(以下「文化芸術活動」という)を行う者(文化芸術活動を行う団体を含む。以下同じ。)の自主的な活動の促進を旨とし」(第一条)、「文化芸術活動を行う者の自主性が十分に尊重されなければならない」(第二条第一項)、「文化芸術活動を行う者の創造性が十分に尊重されるとともに、その地位の向上が図られ、その能力が十分に発揮されるよう考慮されなければならない」(第二条第二項)と繰り返し文化芸術活動を行う者の自主性の尊重について規定しています。
さらに、2017年の文化芸術基本法改正では、上記に加えて、前文第四段落で「表現の自由」への言及が挿入され(次の強調部)「我が国の文化芸術の振興を図るためには、文化芸術の礎たる表現の自由の重要性を深く認識し、文化芸術活動を行う者の自主性を尊重することを旨としつつ、文化芸術を国民の身近なものとし、それを尊重し大切にするよう包括的に施策を推進していくことが不可欠である。」というかたちに変わりました。
もともと国(文科省および文化庁)は、検閲をはじめとした戦前の文化芸術への国の介入に対する反省に立ち、表現の自由を保証する憲法21条を踏まえたうえで、助成を行う場合も採択をピア・レビューの専門家に委ねるという姿勢であり、2001年法でのある自主性/創造性の尊重の明記も、それと沿ったものと解釈されてきました。文部省・文化庁OBである故・根木昭氏は、文化政策学の入門書の中でこの姿勢を国の「内容不関与の原則」として強調しており(たとえば『文化行政法の展開』(水曜社、2005年)など)、同時にこれはアーツカウンシル・イングランドの創設時において強調された「アームズ・レングスの原則」と実質的に同じものである、と記しています※。
2017年改正での表現の自由への言及の追加はこの点をさらに明確化したものといえます。
※ なおアームズ・レングスの原則については、日本では少し理想化された誤解(アームズ・レングスが文化政策全般の大原則であるという錯覚)が根強くあります。アームズ・レングスはもともと、「独立」状態を指す一般的な用語であり、公共分野においては、権力分立や、政府からのマスメディアへの介入や、両者の癒着や腐敗を防ぐために距離を取る必要があるということを説明する際に使う概念です。したがって文化政策特有の用語ではありませんし、後述するように、文化政策においてもいつでも適用されるものでもありません。その意味で「表現の自由」や「文化権」のような法的・人権的な原理とはレベルが違う用語であることにご注意ください。これらに関しては、過去のネットTAM講座の伊藤裕夫先生の記事や山口裕典氏の記事もご覧いただければと思います。)
文化振興における政府の役割はアームズ・レングスの文化機関への「パトロン」としてだけではなく、多様な文化芸術が行われやすくなるための税制などの条件整備(米国の寄付税制がその典型です)や、現場で芸術的選択が自治・自律的に行われることを前提としつつ社会福祉政策として政府の責任のもと安定した資金を提供する設計監理者(フランス・ドイツの州レベル文化政策がその典型です)、さらに自ら広報・宣伝・啓発の主体としての役割を果たす場合(国レベルでは旧社会主義・共産主義国が典型ですが、自治体のレベルではどこでも見られます)もあります。
戦後すぐから1980年代にかけては、旧西側諸国の文化政策において、国家の文教分野への介入にアレルギーが強かった英国と英連邦を中心に、特にファインアートやシリアスアートといった専門的・学問的研究に近い分野の振興において、政府とアームズ・レングスの(一定の独立性をもった)文化機関を設置し、政府はそのパトロン的な役割を果たすというケースが増えました。米国においてもそれに範をとってNEAが作られました。
他方で、ファインアートやシリアスアートに留まらない幅広い文化振興の要請や、世界的な存在になった文化芸術団体の支援のためには設計管理者型の文化政策が望ましいため、政府や政府の委託を受けた文化機関が設計監理者として文化政策を行うケースも世界的に増えています。また、英国アーツカウンシルが2012年のロンドンオリンピックで行った文化プログラムは、文化政策の専門職を有するアーツカウンシルが設計監理者的な役割をも担うことを示したものともいえます。重要なのは、「高い知見を持つ専門家が自治・自律的に専門性を発揮できる制度」であり、「アームス・レングス」はその一つのやり方にすぎません。
「表現の自由」が明記された背景
ところで、なぜ2017年改正でこの点が明確化される必要があったのでしょうか。それは、行政がかかわる文化振興において、「内容不関与の原則」が破られ、国や自治体が、文化芸術活動を行う個人・団体の自主性・創造性を尊重せず、文化芸術活動の内容に関与したのではないかと考えられるケースが続発したためです。
いくつか例を挙げましょう。
- 2007年から2008年にかけておきた、映画「靖国 YASUKUNI」をめぐる国会議員向け特別上映の実施や上映中止・公開延期の騒動。
- 2009年、沖縄の県立美術館で巡回展の版画作品が館長(文化芸術分野や文教行政の経験がない、副知事経験者)から展示を拒否された事件。
- 2010年、神戸ファッション美術館でおきた、開催中の展示物の強制撤去。
- 2016年3月、東京都現代美術館「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」で小泉明郎《空気》への館側からの改変要請があり、作家は館内での展示をとりやめて美術館近隣の画廊で同作品を展示。
- 2016年7月、美術評論家連盟は「表現の自由について」WEBサイトを開設するとともに、その前年に起きた東京都現代美術館での展覧会における会田誠作品の撤去をめぐる騒動について公開質問状を発表。
上記のほかにも美術作品をわいせつ物として検挙する動きなど、さまざまなかたちでの圧力によって、美術作品の展示がとりやめになったケースや、批判を受けるケース、また検閲や自主規制をめぐる当事者の告発などが相次ぎました。(詳しくは、拙著の美術表現にかかわる近時の国内規制事例10選(1994-2013)や、それ以降現在に至るさまざまな事件・事例の年表(作成中)をご覧いただければ幸いです。)
このように、2017年改正の前の10年に、文化芸術振興基本法の目的・基本理念および文化庁の「内容不関与の原則」に抵触する可能性が疑われるケースが数多く発生したことが、2017年改正の際に「表現の自由」が文化芸術基本法に挿入された背景としてあります。
芸術の自由について
なお、最近「芸術の自由」という言葉を聞きます。これについてはやや注意が必要です。というのもこれは「検閲(センサーシップ)」と同じく、日本国内と、海外でも国によって法的に通用している意味が違うためです。たとえばドイツ憲法(ボン基本法)では、「芸術の自由」が明記されています。具体的には、表現の自由を定めた第5条において、「学問の自由」と同じ第3項に掲げられており、法律や個人の名誉権の制限を受けない政治的・社会的権利とされています。したがって、たとえドイツで一般に行えば刑罰を伴う犯罪行為に該当する場合(例:ナチを礼賛するセリフを公衆の面前でいう)でも、芸術表現行為の一環として認められる場合(例:そのセリフを、演劇の上演の中で役者がいう)は、ドイツでは芸術の自由により違法ではない行為となります。日本でも、たとえば小説の中での一部分における性的な描写を巡り違法性を否定する結論が導かれた裁判例(悪徳の栄え事件等)はありますが、日本国憲法では「芸術の自由」は明記されていないこともあり、直接的に芸術の自由はその理由とされていません。
日本では、裁判所は憲法21条1項の表現の自由に芸術表現も当然に含まれると解釈しています。とはいえ日本ではどちらかというと表現の自由は「政治的発言の自由」を保障するものという捉え方が強く、また裁判所は、他に発表する場所があれば、21条2項の検閲とされることもないと解釈しています。私は、日本では「芸術の自由」的なものは、表現の自由だけではなく、憲法23条の学問の自由の一環としても保障されるということが明らかにされるべきではないかと考えています。昭和38年「東大ポポロ」事件最高裁判決以降、憲法23条の学問の自由には、「研究の自由」と「研究発表の自由」と「教授の自由」が含まれると解釈されており、このうち「研究の自由」と「研究発表の自由」についてはすべての国民に保障されるものとされています。特にファインアートやシリアスアートといった専門的・学問的研究に近い分野においては学問の自由と同様のものとして芸術の自由を捉えるべきではないかと思います。ぜひ次回以降の文化芸術基本法の改正の際には前文に追加することを提案します。なおドイツだけでなくイタリアの憲法でも学問の自由と芸術の自由は同じ条文に入っており、後ほど紹介する国際人権法上も、科学研究と創作活動(≒学問と芸術)は並べて書かれていることが多い点も指摘しておきます。
文化権(文化的人権/文化的権利)との関係
「文化権(文化的人権/文化的権利)」という言葉をご存知でしょうか。文化芸術基本法第2条第3項では「文化芸術を創造し、享受することが人々の生まれながらの権利である」と確認しています。日本国憲法では25条1項で「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と定めていますが、25条が「文化的」な生活を国に対して要求できるとまでは考えられていません。しかし、13条の「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政のうえで、最大の尊重を必要とする。」という規定から導き出される「幸福追求権」は、日本における「文化権」の根拠とされています。
法的拘束力を持つ国際人権条約(日本は1979年に批准)である「国際人権規約」では、「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(社会権規約、A規約)」の第15条と「市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約、B規約)」の第19条において、次のように文化権の保障を規定しています(外務省ウェブサイトの仮訳より)。
A規約 第十五条
- この規約の締約国は、すべての者の次の権利を認める。
(a)文化的な生活に参加する権利
(b)科学の進歩及びその利用による利益を享受する権利
(c)自己の科学的、文学的又は芸術的作品により生ずる精神的及び物質的利益が保護されることを享受する権利- この規約の締約国が1の権利の完全な実現を達成するためにとる措置には、科学及び文化の保存、発展及び普及に必要な措置を含む。
- この規約の締約国は、科学研究及び創作活動に不可欠な自由を尊重することを約束する。
- この規約の締約国は、科学及び文化の分野における国際的な連絡及び協力を奨励し及び発展させることによって得られる利益を認める。
B規約 第十九条
- すべての者は、干渉されることなく意見を持つ権利を有する。
- すべての者は、表現の自由についての権利を有する。この権利には、口頭、手書き若しくは印刷、芸術の形態又は自ら選択する他の方法により、国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む。
- 2の権利の行使には、特別の義務及び責任を伴う。したがって、この権利の行使については、一定の制限を課すことができる。ただし、その制限は、法律によって定められ、かつ、次の目的のために必要とされるものに限る。
(a)他の者の権利又は信用の尊重
(b)国の安全、公の秩序又は公衆の健康若しくは道徳の保護
文化芸術基本法に明記されている「文化芸術を創造し、享受する」文化権は、日本国憲法では明文化されていませんが、国際的な人権保護の枠組みではこうしたかたちで明文化され、保障されています。なお、A規約15条の文化権=享受する権利は「社会権的文化権」、B規約19条の文化権=自由権の一環としての権利は「自由権的文化権」ともいわれます。
2017年の文化芸術基本法で、超党派の議員立法により全会一致で「表現の自由」が挿入されたという事実は、今日において「自由権的文化権」の保障がより一層重要であるという課題を国民の代表者が認めた重要な出来事でした。今後の文化政策・文化行政においてどのようにそれを制度的にも確実にしていくことができるか、今はそのような時期であると捉えてもよいかもしれません。
折しも「あいちトリエンナーレ2019」では、県や市の行政の長が芸術祭の実行委員会の会長・会長代行をつとめるといった体制(自治体が行う「芸術祭」において常態化していますが、それ自体が問題であるという指摘も「あいちトリエンナーレのあり方検証委員会中間報告」においてされていましたが)でした。他方で、9月に文化庁が行った補助金の「金額不交付」決定において「内容」への判断がなされたのではないかという疑問の声が上がりました。なお、文化庁の不交付判断を支持する声の多くが、「内容に基づいて判断したならば妥当だ」と考えていたことも注目に値します。いい方を変えれば、文化庁が「内容不関与の原則」を形式的に墨守したものの、実質的にそれを自ら潜脱したのではないかという疑念です。
私見では、審査会での採択後の全額不交付という審査手続にあたり、文化庁が委嘱した専門家審査員への意見聴取や、問題となった現場の確認や、不交付とするに足る議論を一切経ずに「書類不備による審査不能」として前例なき例外として処理したという点が問題があると考えています。これは今回の問題の当事者である愛知県と国との関係にとどまるものではありません。なぜなら今後、どのような場合に同様に実質的な事後的変更が行われるのかについて、いい換えれば将来の申請者の視点において必要な情報を提供しておらず、その点で行政としての説明責任を十分に果たしていないからです。仮に今後も、今回と同様に理由を十分説明せず、あるいは「公益性」のような不明確な理由での不交付や交付取り消しが事後的に行われることが続くのであれば、「内容不関与の原則」という不文律は実質的にもはや忘失されたものと捉えるのが自然です。同時にそれは文化振興における自主性・創造性尊重という、文化芸術基本法で明文化された理念が遵守されていないではないか、という指摘も免れ得ないものと感じます。
いずれにしても、最も重要なことは、助成先の現場の自治・自律を破壊してしまっては、継続的な文化振興は不可能だということです。他方で、「芸術の自由」は重要ではあるものの、文化芸術振興にあたっての政府の役割がすべて「内容不関与の原則」または「アームズ・レングス原則」に拘束されるべきといった誤解が広がることも懸念しています。今日の文化政策における政府の役割はそのような消極的なものにとどまるべきではなく、むしろ文化的人権の保障の観点から考えるべきです。「公益性」についても、それを特段の不交付理由として使うのには反対ですが、むしろ制度設計の時点で、(「経済的利益」や「国益≒国家ブランディング」ではなく)あくまで「文化的人権の保障の観点から導かれる「公益」=精神的利益のために国家が助成をする」のが主であり、従ないし手段として経済的利益やブランディングがあるということを明確にするという文脈であれば、より幅広く支持を得ることができますし、実態にも沿ったものになるのではないかと思います。同時に、文化的人権の保障という観点からは、行政が少数者の利益や解決困難な社会的課題に対する事業や助成を行う際に、「芸術」や「アート」を広報・宣伝・啓発として使うこと自体は広く認めてよいと思われます。いずれにしろ、政府や政府系の助成機関が説明を尽くすこと、そして特に高度な専門性が必要な分野においてはその担い手が自主性・創造性を発揮できるような自治・自律の仕組みを、国や自治体が責任を持ってきちんと整備・構築していくことこそが、文化的権利および文化芸術基本法の理念に沿い、長期的に国民全体の利益となるものではないでしょうか。
また、上記のような経緯を経て改正されたこの法律の理念と目的を踏まえて、文化芸術関係者、行政、政治家、そしてすべての享受者たる国民が、現状そしてこれからのさまざまな制度や規定のあるべきかたちを再考する必要に迫られています。いま一度、全文、特に前文から第二条までをお読みいただければと思います。