叱られる|土地に入る態度とコミュニケーションの出発点
最近、叱られることってありましたか?(ちなみに、私はありました。)
アートプロジェクトの現場は「叱られる」ことばかりといってもいいのかもしれません。なぜなら、日々の暮らしで交わらない分野や人を横断的につなぎ、予定調和ではない状況を持ち込むことで、まだ見ぬ風景をつくり出すからです。常識も経験もそれなりに積み重ねてきたであろう「いい大人」が叱られる。しかし、そのことをコミュニケーションの出発点として捉えてみると、これはアートマネージャーにとって一つのチャンスでもあるのです。
さて、まず本記事において、「怒られる」と「叱られる」の違いについて定義しておきます。辞書とは違って個人的見解も大いに含んでいますが、そこは悪しからず。「怒られる」というのは、感情的になって激昂した人から一方的にコミュニケーションを断絶されてしまうものであり、そこから両者が対話する場は生まれません。他方「叱られる」には、感情的なことばであったとしても、そこには指導や指摘といったニュアンスが含まれます。「改善してほしい」という期待が込められているからこそ、「叱られる」ことは現状をよりよくするための対話につながります。
今月のことば
叱られるまちでアートプロジェクトを仕掛けるとき、アーティストとのやりとり、会場利用の調整、プロジェクトへの協力依頼など、さまざまな場面でそこに暮らす人との関わりが生じる。そのときプロジェクトは、すでに自分たちだけのものではない。
ときには「喝」を入れられることもあるだろう。しかしそれこそが、まちや人とのコミュニケーションの出発点になることもある。
『ことば本』50頁
まちを舞台に何かを企む時点で、プロジェクトにはさまざまな人が関与していることを忘れてはいけません。たとえば作品を設置する場所選びのとき、許可申請や協力依頼をするとき、必然的に人とのコミュニケーションが発生します。
私は大学ではフィールドワークを手法として、調査を進めていく際の「よそ者としてのふるまい」や、調査した成果をまちに還元する可能性について研究していました。フィールドワーカーの知りたい・明らかにしたいという好奇心は、「調査被害」ということばがあるほど、ときに地域住民の搾取にもなります。
アートプロジェクトにおいても、まちの歴史や住民から聴いた話、現地での経験を解釈しながら、アーティストと地域住民がともに作品をつくりあげていくという点で無関係なことではありません。まちや人とのかかわりは多くの出会いが生まれる一方で、戸惑いや摩擦を生じてしまうこともあります。
ここからは、現場がつくりあげられていくプロセスのなかでも「叱られる」という切り口から、その行為がどのようにコミュニケーションの出発点としてつながっていくのか、恥ずかしながら私自身が叱られたエピソードも含みつつ、紐解いていきたいと思います。
「叱られる」ことは問われること
私は東京アートポイント計画のプログラムオフィサーとして働く以前、富山県氷見市にてアートプロジェクトを展開する「アートNPOヒミング」の事務局スタッフとして働いていました。ヒミングは、氷見に住まう魅力的な人、風習、伝統技術、日常生活での知恵、豊かな山や海などの自然、土地に根づく文化に焦点を当てながら、土地の魅力について考えていくアートプロジェクトです。当時、私が担当していたプログラムの一つにアーティスト・五十嵐靖晃さんの『そらあみ』があります。まずはそこで実際にあった「叱られる」ということについてご紹介したいと思います。
『そらあみ』は、市民とともに漁網を編むことで、人をつなぎ、記憶をつなぎ、完成した網越しに土地の風景を捉え直すアートプロジェクトです。氷見での実施以前にも、さまざまな場所で展開されてきました。氷見には約400年の網漁文化の歴史があり、定置網はもちろん、地引き網、刺網漁といった網を用いた漁法が根づき、網とともに生き、工夫がなされてきた土地です。『そらあみ』を展開してきた五十嵐さんと氷見を舞台にしてどのような風景を立ち上げることができるのか、担当として高揚感と不安とが入り混じる始まりでした。
氷見で漁網を扱うプロジェクトを実施していくにあたって、まず漁業を生業としている人たちへの挨拶まわりから始め、リサーチを進めていきました。
何人かの漁師さんから話を聞くことを経て、私は五十嵐さんから「漁に同行したい」と相談を受けました。漁に同行するためには、その船の責任者である船頭の許可が必要です(もちろん関係各所からも)。以前からお世話になっていた船頭の方に打診をしたところ、私はその方から「叱られる」ことになりました。
「漁についていくということは、決して気軽なことではない。船頭にとっては命を預かることだし、その人にとっては生死にかかわる。アートというけれど、そういう自覚と覚悟はちゃんとあるのか。」
この「喝」は、プロジェクトの本気度を試されている瞬間であり、氷見の漁師が身体的に持つ「海へ出る」ということの尊さに触れた瞬間でした。自らの手で網を手繰り、受け継いできた先人の技術や知恵を生かし、目の前に広がる海とともに生きてきたという自負はずしんと深く響きました。そんな漁師の考えかたや所作一つひとつが新たな価値観との出会いであり、あらためて事務局スタッフやアーティストと話す機会にもなりました。
前回の「アーティスト」パートで述べているように、「事務局は、アーティストの作品に対する想いやヴィジョンに真摯に向き合い、最後まで可能性を狭めずに最善を尽くすことが一つの役割です」。プロジェクトについて腑に落ちるまでアーティストと対話を重ねられているか、実施する意義を信じきれているか、何か滞りが生じたときこそプロジェクトの根幹が問われてくるでしょう。結果的に漁に同行させてくださった船頭の方は、その後も違うと思えば私たちを叱り、ときに豪快に笑いながら、懐の深さと優しさをもって向き合っていただけました。あのときの経験は確実にプロジェクトの糧となり、ここだからこそのプロジェクトを紡ぐことができたのだと思います。
「叱られる」ことを好機にとらえる
現在担当している東京アートポイント計画事業からも「叱られる」のエピソードをご紹介したいと思います。
東京都小金井市で実施するNPO法人アートフル・アクションとの事業「小金井アートフル・アクション!」で2017年7月に開催した「Hi-Blood Pressure展」での出来事です。ポーランド出身のアーティストを招聘し、市民とともに制作した作品を観覧するこの展覧会。コンセプトでは「ハイレッド・センター」を参照し、「平穏な日常のなかに芸術を持ち込む」ことを参加アーティストそれぞれが試みていました。
展覧会初日のオープニングイベントとして、アーティストのAnna Jochymek(アンナ・ヨヒメック)とサポーターの美大生数名でパフォーマンスが行われました。人間のバイタリティー(生命力、活力)を表現したこのパフォーマンスは、栄養価が非常に高い「ひまわりの種を食べ続ける」というものでした。パフォーマーは会場のギャラリースペースだけではなく、会場までの階段や廊下、会場周辺など屋内外さまざまな場所で、同時多発的に出没します。無言で種を食べ続けながら佇むパフォーマーがいる場所には食べたあとのひまわりの種の殻が溜まっており、たまに視線が合うとギクリとする印象を抱くものでした。
そんなパフォーマンスの最中、近隣店舗の女性から「公共的な場所をなんだと思っているの?」と、「叱られる」ことが起こりました。もちろん近隣店舗や住民にはパフォーマンスで使用することは事前に了承済みでしたが、具体的な内容やどういった意図なのかということはあえて伝えていませんでした。そこには、近隣の人々にとってもハプニング性を孕んだパフォーマンスになることを狙った、戦略的な事務局の意図があったのです。そのため、事務局では何かしらトラブルが起きることは想定しており、事後のフォローアップ体制を整えていました。近隣店舗の女性から叱られた事務局長の宮下美穂さんは、当時を振り返って話をしてくれました。
「叱られた翌日に改めて電話して、そのときにこの展覧会の意図についてしっかり話すことができました。まちなかでプロジェクトを実現するためには、まずどういった方法や道筋があるのかを確かめるのが大事ですよね。そこをきちんと考えられていれば、叱られても乗り越えて進められる。「叱られる」ことは、その人は自分より目上だからとか年齢、性別に関わらずにある意味対等に見てくれている態度にも思います。」
誰かの日常に介入するプロジェクトになればなるほど、現場でのトラブルはつきものです。まちにさざなみを起こすことを大切にするには、しっかりとした連絡体制や丁寧なフォローアップを設計しておくことが必要です。今回のパフォーマンス後に掃除をしていると、叱られる現場を見ていた他の近隣店舗の方が手伝いに来て、「大丈夫、大丈夫。あとで飲みにいらっしゃい」と声をかけてくれるなど、会場周辺の縁を深めるきっかけにもなったそうです。日常にはなかった視座の獲得や関係性が少しずつ構築されていくこと、それこそがアートがまちなかにある価値なのだと思います。「叱られた」ことを好機として捉えて自分たちの活動や仕掛ける意図について対話する一歩は、これからのプロジェクトの強度を高めていくはずです。
「叱られる」ことを出発点に
今月のことば
叱られる説明は足りていたか、必要な手順は踏んでいたか、自己主張だけになっていないか、まずは自身のふるまいを見直してみる。そのうえで膝を突き合わせ、ことばを交わすことで、その人の信念や培われてきた慣習に触れることができるだろう。それはかけがえのない学びにつながっていくはずだ。
さまざまな考えと出会い、それを咀嚼し、次につなげていく小さな積み重ねは、いま・ここだからこそできるプロジェクトをつくっていく。新しい風を起こす覚悟と、そこに暮らす人への敬意を忘れず、勇気をもって一歩を踏み出そう。
『ことば本』50頁
「叱られる」を切り口に2つのエピソードをご紹介してきましたが、もちろん叱られることを推奨しているわけではありません(できれば叱られる機会は少なくありたいものです)。重要なのは、向き合ってくれたその人の熱量から何を学びとるかです。その内容はとてもシンプルで当たり前のことだったりします。しかし、それは自身に足りない視座やプロジェクトの根幹を問いなおす契機になります。叱られたことを恐れることなく、それを好機として対話の場に結びつけることがアートマネージャーとしては大切なふるまいであり、その姿勢が自身の想像を越えるようなまちや人、価値観との出会いにつながるのです。
この「ことば本」に収録した「叱られる」ということばは、アートプロジェクトの舞台となる「土地に入る態度」と思って読んでいただけたらと思います。いまや全国各地、大小問わずさまざまな規模で、まちなかでのアートプロジェクトが行われています。「土地に入る態度」に模範解答はありません。しかし、舞台となるその場所で暮らし営む人びとに敬意を払い、ともにプロジェクトを形づくることができたときこそ、まだ見ぬ風景を立ち上げることにつながっていくのです。
「叱られる」と関連して、このことばを巻末に掲載して締めくくりとさせていただきます。
失敗と事故
プロジェクトに失敗はつきものだ。新しいことに踏み込めば、それだけ失敗は多くなる。その経験は、何よりも個人の身体的な学びとなるだろう。現場を動かすためのスキルアップは失敗とともにある。「失敗」が個人の経験だとすれば、「事故」は運営チームの出来事として失敗を捉え直すことである。「事故」とは人命にかかわるものだけではない。手違い、トラブル、進行の遅延など業務が正常に遂行されていない状況も指す。「事故」化した失敗は、プロジェクト運営の財産ともなる。失敗を事故として共有するのは、誰もがしづらいことだろう。だが、プロジェクトの過程で誰かが不利益をこうむる可能性があれば、他のメンバーと共有すべきだ。何か起きたとき、外から説明を求められるのは失敗した当事者に限らない。
ルールの逸脱や目に見える被害があるものは分かりやすい。アーティストなどプロジェクトのパートナーとの行き違いや揉めごとは見えにくいが重要だ。二度と起こしてはいけないこと、不可避だけど対応策が練れるもの、些細でも共有すべき重要なこと。プロジェクトを主語に、この判断ができるかが、現場を動かすプロフェッショナルであるかの分かれ目ともなるだろう。
『ことば本』61頁
おすすめの1冊
「調査されるという迷惑 フィールドに出る前に読んでおく本」
著:宮本常一・安渓遊地、2008年
さまざまな土地で実際にあった「迷惑」について触れながら、フィールドワークをする心構えについてまとめられた一冊。アートプロジェクトに携わる人にもぜひ読んでいただきたい一冊です。