日本の文化政策の状況 【1】
前回、文化政策とは単純に望ましいものと期待するわけにはいかないものであり、また括弧書きでしたが、日本でも20年ほど前までは、文化政策というと年配の方々の中には警戒する人も少なくなかったとも述べました。そこで日本の文化政策の現状を見る前に、まず日本における文化政策の歴史というか、芸術文化と社会の関わりについて簡単にみておくことで、文化政策の意味をもう一度おさらいしておきましょう。
1.文化政策前史 ── 日本の独自性考える
欧米諸国と同じように、日本においても文化が政策の対象と見られるようになったのは、近代以降、すなわち明治維新以降のことです。それ以前は、これも他の国々と同じように、文化は共同体の中で保持されてきたり、あるいは時の権力者に庇護されて再生産されていました。ただ欧米諸国とちょっと違う点として、日本の文化と政策の関わりを考える場合、土着的な文化(これもより古い時代に伝来し土着化した外来文化の場合が多々あります)と並んで、海外から伝来した「外来文化」の摂取ということを無視することはできないでしょう。
古くは飛鳥時代、朝鮮半島を経て中国あるいは西域から、仏教をはじめさまざまな外来文化が日本に伝えられてきました。当時の為政者たちは、(近代的な意味での「政策」とは言えないものの)国づくりの一環としてこれらの移入に取り組みました。芸術文化に関わることで例をあげれば、今日に伝わる雅楽(舞楽)は、当時大陸から伝わってきた伎楽を朝廷の式楽として取り入れ、その演奏者や舞手を養成する役所(大宝律令に治部省所属雅楽寮としてあげられています)をつくって定着化させる「政策」をとった結果といえます(千数百年も前に、いわば国立の音楽大学があったわけですから、これはすごいことですね)。
もう一点、近代以前の「政策」で欧米と異なる点は、江戸時代、徳川幕府は儒教の理念にのっとり、芸術文化にはきわめて冷淡な態度をとったということです。もちろんヨーロッパでも、為政者は常に芸術文化の保護者であったわけではありません(むしろ保護者となったことが少なかったからこそ、逆にメディチのようなパトロンの名が残ったともいえます)が、しかし江戸時代のように300年近くも長い間一貫してその振興に取り組まなかった例はあまりみられません。
一般に芸術文化の振興は、隣り合う国々が競い合っているとき盛んになる傾向があります(もちろんその競い合いが激しくなると戦争になったりしますが)。ヨーロッパはフランスやイギリス、ドイツ、スペインなど強国がしのぎを削っていたわけですから、軍事や経済とならんで文化も重要な競争手段として用いられたことは不思議なことではありません(日本でも戦国時代は群雄割拠する大名たちが文化の保護者となった例を見ることはできます)。ところが江戸時代は、ご承知のように、島国日本は徳川幕府によって一応統一され、また鎖国で外国との付き合いも断っていたのですから、幕府は特に文化の保護者になる必要はなく、そのため300年近くもそれが続いたと考えられます。
ただ幕府が芸術文化に冷たかったから、文化が栄えなかったかというと、決してそういうことはありませんでした。ご存じの通り、江戸時代は歌舞伎・文楽、浮世絵など町衆を中心にさまざまな文化が花咲きました。すなわち江戸時代は、政府(幕府を近代的な意味で「政府」ということはできませんが)は何もしなくても、民間の力で文化振興は可能だということを示した時代であったといってよいでしょう。
どうも前史が長くなってしまいましたが、この文化政策以前の歴史の中には、今日の文化政策の課題やこれからの文化政策のあり方に参考になるヒントがあるのではないかと思います。
2.明治以降のジグザクな政策の歩み
さて、次に明治維新以降の(近代的な意味での)文化政策の歴史に移ります。前回述べましたように、欧米における文化政策の基本にあったのは、「国民国家」建設に向けてのアイデンティティの形成──国民の文化的統合ということにありました。日本でもそれは同様で、欧米型の中央集権的な国民国家をめざした明治政府は、それまでの藩や地域社会にあった人々の帰属意識を、「日本」という国家の「国民」へと転換させなければなりませんでした。ヨーロッパではその際、美術や音楽、演劇といった芸術文化は伝統的な文化的財産として、教育と並んで国民の文化的統合の大きな手段として活用されたのですが、日本の場合は芸術文化の活用がほとんどみられませんでした。それは、まさに先の述べた二つの日本的事情──外来文化の移入という伝統と、江戸時代の民間中心の文化振興──と深く関わります。
まず外来文化の移入という面では、ご承知のように日本の近代化は欧米化、すなわち先進欧米諸国の制度の摂取が、軍事・産業・教育といった分野を中心に進められました。芸術文化についても、美術や音楽の分野では(芸術文化的な関心というよりは、むしろ産業や軍事面からの要請の方が強かったといわれています)その移入がはかられています。しかしそれらは日本の伝統的な文化ではないこともあり、そうした政策が実って、人々がそれらを文化として享受するようになるのは半世紀以上も先、大正時代のことになります。
民間中心の文化振興という面は、その半世紀後の大正時代、大都市を中心に新しく登場してきた都市生活者向けの商品を生産・販売する企業(百貨店や化粧品、洋酒など)が、マーケティング活動の一環として、音楽や美術、演劇・舞踊といった芸術文化を用いはじめたというところに見られます。この時代に宝塚歌劇や資生堂ギャラリーなどが誕生し、また美術展や管弦楽のコンサート、新劇の上演、浅草オペラなどが東京や大阪といった大都市では繰り広げられるようになっていきました。
このように明治以降の日本の文化政策は、開化期の近代化=欧米化の一環としての欧米文化の移入・移植政策と、その後の「無策」というか民間への任せっぱなし(実際には無策ではなく、官展や省展と呼ばれた国主導の美術展の開催など欧米諸国をまねた施策や、「検閲」や「劇場取締」といった統制的な政策は行われていました)が基本で、そのため「日本の文化政策は遅れている」という見方が作られていったといえるでしょう。しかし例外的に、きわめて短い期間でしたが、政府が芸術文化(特に映画や演劇)に強い関心を持ち、積極的に「文化政策」に取り組んだ時期がありました。それは第二次世界大戦のまさに始まらんとする時期のことでした。戦争と芸術文化というと正反対のイメージがありますが、なぜ大戦前夜のこの時期に「文化政策」(日本の歴史において政府内部で「文化政策」という言葉が公式に用いられたのは、この時期と最近の20年しかありません)がとりあげられたのでしょうか?
ここで前回「文化政策」について述べたことを思い出してください。文化政策とは、「人びとの精神的活動を促進(あるいは統制)し、そうした文化的成果の共有と蓄積を推し進めることで、私たちの暮らす国なり地域社会のあるべき文化イメージ──国民・市民によって習得・共有・伝達される行動様式や生活様式──を形成していくこと」。今日の戦争は、単に軍隊だけが戦うのではなく、国民全員が総力を挙げて戦いに邁進することが強く求められます。文化政策は、戦争に向け国民の精神を「総動員」していくための手段として、敵国であった英米の文化を排除するとともに、自国の文化の優越性をうたいあげ、また映画や演劇などの人々に親しい文化を通して「国の栄光」「国民の一体感」を形成して、「国のために死ぬ」といった気持ちを醸成しようとしたのでした(今日でも、イスラム過激派といわれる人々が「自爆テロ」といった信じがたい行動をとりうるのには、宗教という文化の持つ力の大きさがあるといえます)。
このように日本では、近世以降、為政者は芸術文化に対し冷淡というか、むしろ統制的な政策をとりつつ民間に任せることを基本に、大きな社会変動に面した時には、外来文化の摂取に取り組んだり、あるいは逆に極端なナショナリズムの方向に国民を誘導する手段として、文化政策を推進した歴史があったこと──これが文化政策というと年配の方々の中には警戒する人も少なくなかったことの背景にあるのです。
どうも歴史の話が長々と続いていまいましたが、次回は今日の日本の文化政策の現状についてお話ししたく思います。
(2008年3月15日)