芸術祭はどのように始まったのか
2016年はお馴染みになった瀬戸内国際芸術祭やあいちトリエンナーレ2016のほか、新しくさいたまトリエンナーレ2016や茨城県北芸術祭がスタートするなど、数多くの芸術祭が集中している。21世紀に入り、00年に始まった大地の芸術祭/越後妻有アートトリエンナーレや、01年に第1回が開催された横浜トリエンナーレが契機となって、美術館で近代絵画の企画展を鑑賞するのではなく、美術館から飛び出して、一般の人もツーリズム感覚で現代アートを楽しむようになった。今後、20年の東京オリンピックを踏まえて、芸術振興の予算がつくことから、さらに数は増えていくだろう。そこで本稿は、芸術祭がどのように始まったかを振り返りたい。なお、次回に公開されるテキストでは、筆者があいちトリエンナーレ2013の芸術監督やヴェネツィアビエンナーレ国際建築展2008の日本館コミッショナーをつとめた経験をもとに、芸術祭の現在について述べたいと思う。そして第3回は、日本国内で乱立するなかでの地域アートの問題も論じる予定だ。
こうしたイベントの起源をたどっていくと、もっとも古参なのが、ヴェネツィアビエンナーレ国際美術展だろう。1895年にギュスタブ・モローやアーノルド・ベックリンなど、15ケ国のアーティストが参加する第1回の国際美術展が開催されている。つまり、すでに100年以上の歴史をもつ。ゆえにもっとも有名であり、強力なブランドにもなった。市が主催し、20世紀になると、ヴェネツィア唯一の公園であるジャルディーニにおいて、イタリア館や日本館など、各国のパヴィリオンが並ぶ会場が形成されていった。このスタイルからもうかがえるように、万博的であり、実際最初のビエンナーレが登場した19世紀後半は万博の時代だった。1851年のロンドン万博、開催を繰り返しながら都市開発を推進したパリ万博、ウィーン万博など、当時はヨーロッパの主要都市において最先端のテクノロジーやエキゾチックな異国の産物を一堂に集める新しいスペクタクルの空間が人気を博していた。その背景として19世紀に鉄道が各都市をつなぎ、団体ツアーも行われるなど、大量の人の移動が可能になったことが挙げられる。
なお、世界の縮図となった万博の会場内では、美術展も開催されていた。1855年のパリ万博と美術展を体験したボードレールは、「世界市民性(cosmopolitisme)」の考えが必要だと語り、「現代性(modernité)」の概念を語るようになった。万博を通じて、自国を見るだけではなく、世界のさまざまな場所から集まったモノを比較できるようになり、同時代性といった切り口も意識されるようになったのだろう。ともあれ、芸術祭の始まりの風景が、万博だとすれば、ツーリズムと結びつくのは、当然といえるかもしれない。さて、ヴェネツィアのジャルディーニは、20世紀を通じて、各国を代表する建築家によってその時代の傾向を反映したパヴィリオンが次々と建設され、1回限りの展示ではなく、常設の施設として定着した。運営は、いつまでも市が行うのではなく、後に財団化することで、政治や選挙に左右されず、長期的に継続できるシステムが構築されている。いうまでもなく、ヴェネツィアは通常の都市ではない。縦横無尽に運河が走る水の都の風景は、よそ者にとって、普段から非日常的な祝祭性をもち、それがビエンナーレにマッチした側面もあるだろう。
ちなみに、ヴェネツィアビエンナーレは、美術以外に音楽、映画、演劇、建築、ダンスなどの部門もあり、日本の映画監督や俳優が受賞したときにニュースが報道される映画祭がよく知られているだろう。また国際建築展は、80年から公式に始まり、筆者も日本館のコミッショナーや出品者として参加した。現在、奇数年に国際美術展、偶数年に国際建築展が開催されている。なお、規模は拡大を続け、国別パヴィリオンが並ぶジャルディーニのほかに、造船所跡のアルセナーレもディレクターによるテーマ展示のためのメイン会場となっているほか(いずれも観光客が必ず訪れるサンマルコ広場から歩いて10分程度の距離だ)、期間中はビエンナーレにあわせて各種の団体や組織がまち中でさまざまな展示やイベントを行う。すなわち、参加したくても会場に入りきらないことから、ビエンナーレの雰囲気がまちなかにあふれ出ているのだ。実際、ジャルディーニにパヴィリオンを新築する余裕はもうない。
ブラジルのサンパウロ・ビエンナーレは1951年が第1回だから、戦後すぐに始まったものだ。これも国別の参加システムを採用している。ほかに長い歴史を誇るのが、ドイツの小さな町カッセルで5年に1度開催されるドクメンタである。55年のスタートだから、やはり60年以上継続してきた。こちらは国別のパヴィリオンはなく、ディレクターが決めたテーマに基づいて、大型の展覧会が開催される。日本でも毎日新聞社が主催した東京ビエンナーレが、52年から70年まで行われている。とくに美術批評家の中原祐介がコミッショナーをつとめた第10回「人間と物質」展(東京都美術館、1970年)は、クリスト、ダニエル・ビュレン、リチャード・セラなど、若き日の重要な海外作家が参加し、伝説的な展覧会となった。ただし、これは現在想像されるような「芸術祭」というよりは、美術館における「国際展」というべきものだろう。
その後、大きな動きとしては、韓国の光州ビエンナーレや台北ビエンナーレなど、90年代以降、アジアに芸術祭が増えたことだろう。現在、上海、シンガポール、釜山、イスタンブール、シドニーなど、ヨーロッパ以外の主要な都市が芸術祭を開催し、グローバリズムの時代における都市間競争を意識しながら、その文化的なアイデンティティをアピールしている。実はこうした世界情勢を受けて、日本でも大型の国際展を始動させるべく、横浜トリエンナーレが始まった。文化外交政策を実施する外務省所轄の独立行政法人の国際交流基金がコンテンツをつくり、その会場となる都市を探した結果、横浜が選ばれている。ちなみに、国際交流基金は、ヴェネツィアビエンナーレ国際美術展と国際建築展における日本館の企画や運営に携わったり、バングラデシュなど海外のビエンナーレから国としての出品を要請されたときにキュレーターや作家を選ぶ業務も行う。
ともあれ、横浜トリエンナーレは都市が主体のイベントではなく、国策として始まった側面もあったが、民主党の事業仕分けによって、国際交流基金基金が海外の作家を日本で紹介することに予算を使いにくくなり(日本の作家を海外に送りだすのは良いのだが)、現在の横浜美術館主導のシステムになった。ヴェネツィアやドクメンタは、100年以上や60年以上かけて重要な国際展として認知されるようになったが、すぐに基盤がおぼつかなくなり日本において、いかに長期的な継続を可能にするかは今後の課題だろう。
一方、越後妻有アートトリエンナーレは、世界的に見てもきわめてユニークな芸術祭になっている。自動車にのって、新潟の広大なエリアに点在する膨大な作品を見てまわる形式はほかにないだろう。世界でもっとも移動距離が多い芸術祭であり、作品を鑑賞する途中、必然的に里山の風景を楽しむ体験が挟み込まれる。これは国や県の行政ではなく、北川フラムとアートフロントギャラリーの存在によって支えられている。したがって、通常の芸術祭の場合、ディレクターは毎回変わるのに対し、越後妻有トリエンナーレはこれまでに6回開催されているが、北川フラムに固定されている。また毎回テーマが大きく変わるというタイプではなく、むしろ都市部を離れて地方の風景のなかで現代アートに触れるという場所性が圧倒的に強い意味をもつ。当然、もともと美術館があるようなエリアではなく、空き家や廃校、そして田園などが作品を設置するためのサイトになる。人口が増加していた高度経済成長の日本ならば、実現不可能なイベントだろう。地方が過疎化、少子化していく状況だからこそ、その空隙を埋める役割として絶好のタイミングでアートが浮上したのである。
いずれにしろ、世界的には珍しいタイプの国際展である越後妻有アートトリエンナーレが大ヒットし、多くの日本人はこれが典型的な芸術祭と現代アートだと認識するようになった。ところで、初めて筆者が新潟の里山をまわりながら、思い出した風景がある。それはクリスト&ジャンヌ・クロードのアンブレラ・プロジェクトだ。91年、日本の茨城県とアメリカのカリフォルニア州の両地域において、3100本の傘を開くという企画である。筆者は大学の学部生であり、友人と自動車にのって、田圃に設置された膨大な青い大きな傘を見学した。規模はともかく、風景のなかに作品が存在することは今の学生にとっては、もう珍しくないだろうが、当時は画期的な体験だった。この壮大なプロジェクトを日本側でサポートしていたのが、北川フラムが代表をつとめるアートフロントギャラリーだった。駅の周辺に36ケ国の作家による100点以上のパブリックアートを仕掛けたファーレ立川(1994年)も、彼らが実行している。今にして思えば、こうしたプロジェクトが美術館からアート作品が飛びだした、越後妻有アートトリエンナーレにつながっていたのではないかと思う。
※写真はいずれも筆者撮影
(2016年4月22日)