コロナ禍における舞台表現への試行錯誤
舞台演出、劇作で舞台の仕事をする私の2020年の舞台上演の活動を書き出すと以下の様になります。
- 1月3日〜25日:新橋演舞場『雪蛍恋乃滝』(歌舞伎)
- 1月12日:東京オペラシティ「ピアノの森コンサート」(コンサート)
- 1月13日:サントリーホール「成人の日コンサート」(コンサート)
- 1月25、26日:札幌文化芸術劇場hitaru〈カルメン〉(オペラ)
- 2月16日:TOYOTA〈ボエーム〉(オペラ)
- 2月17〜24日:東京FMホール「嵐が丘」(朗読劇)
(コロナ禍による中断)
- 8月29,30日:ホリプロミュージカルガラ(コンサート)
- 9月5、6日:紅葉坂ホール「オペラ座の怪人」(朗読劇)
- 10月24、25日:シアターオーブ「No Mucical No Life!」(コンサート)
- 11月10〜15日:日生劇場〈ルチア〉(オペラ)
- 12月24〜27日:台湾国立歌劇場〈ボエーム〉(オペラ)
2020年は1月3日開幕の新橋演舞場、市川海老蔵さん主演、秋元康さん作の「雪蛍恋乃滝」で幕を開けました。歌舞伎では珍しい忍者もので、ブロードウェイから美術家、照明家を招いての公演は数回に渡るNYCでの打ち合わせを経て、元旦を除く連日の稽古で幕を開けました。その後も1月12日に東京オペラシティで『ピアノの森コンサート』、13日にサントリーホールで成人の日コンサートを経て、1月25日には共同制作オペラ〈カルメン〉公演が横浜、名古屋に続く最終地、札幌文化芸術劇場hitaruにて行われました。特に歌舞伎とオペラは国内最大規模のもので、コロナをまったく意識しないままに大人数での舞台が続いていました。私自身はその後1月末に韓国に行きましたが、すでに新型ウイルスの脅威が伝えられており、大量のマスクが薬局に山積みとなっていました。そのときはこれ程の規模の感染拡大になるとは意識しておらず、マスクも物珍しさから数パック購入しただけで帰国しました。しかし、2月の声が聞こえるころになると日本でもウイルスのために舞台公演は危ないので中止すべきではないかといわれる様になりました。このころはスタジオの行き帰りはマスクを必ずして、でもリハーサル時にはマスクを外してという状態で、2月16日に山梨で幕を開けるTOYOTAオペラ〈ボエーム〉、2月17日からの東京FMホールでの朗読劇「嵐が丘」、2月29日からの洗足学園音楽大学オペラ〈魔笛〉のリハーサルを平行して行っていました。ここまではこの数年ずっと続けていた通常運転の無理なスケジュールでした。
コロナ禍が実際に身に迫ってきたのは〈ボエーム〉、「嵐が丘」のリハーサル中でした。〈ボエーム〉は市民合唱団が参加して舞台上は100人ほど、客席も2000席のホールが満席でしたし、「嵐が丘」は連日声優さんが入れ替わりで出演して2月24日まで1日2公演が行われる予定でした。他の商業公演の中止の情報を収集しながら、難しい判断でしたが〈ボエーム〉と「嵐が丘」は全公演を行いました。一方、洗足学園音楽大学の大学オペラは通年授業で、数カ月に渡る芝居のリハーサルを重ねていましたが、2月25日のリハーサル中に大学の判断がくだり、最後のスタジオ通し稽古を終えた時点で中止が告げられました。1年がかりで取り組んできた学生たちは初日を4日後に控えての中止に、茫然自失、涙涙…。2020年2月25日が私にとって当面最後のスタジオでのリハーサルとなりました。
この後、この日を境にすべての予定が止まり、2020年だけでなく最大2023年まで、17個のプロダクションが中止となりました。(今も中止は増え続けていますが、もはや数えていません)その一つひとつが無念でしたが、長年の念願であり、数年越しのプロジェクトであるロンドンの芝居も不可能となったことは大きな精神的なダメージでした。だからこそ公演に次ぐ公演と時間に追われていては得られない、まとまった時間を有効に使うため、それまでアイデアだけあって書けていなかったオリジナルの戯曲を書くことにしました。フェルメール、モーツァルト、ベートーヴェンに関する戯曲で、傑作の誕生に関する物語です。舞台活動が中止された今こそ、あらためて表現の価値について問い、向き合って書きました。その3作は3月から5月までで書きましたが、フェルメールは2013年からプロットだけ書いて書き進められなかったものですし、2008年から書きたいと思っていたモーツァルトの戯曲もあらためて資料を読みあさる所から始めました。他にもこれまで気になっていた映画、本、漫画を見て、読んで、の毎日でした。それまでお金を出してでも欲しいと思っていた時間がいくつもの舞台の中止を代償に手に入ったのだから…と、意地になって取り組んでいました。他にも夏に公演が予定されていた朗読劇用の台本を書いたり、中止になったロンドンの新作プロジェクトを台本を磨くためにZOOMで打ち合わせをしたり、大学のオンライン授業、会議をして過ごしていました。
今はネタを仕込む時期だとムキになって劇作と勉強を続けていましたが、表立っての表現活動の再開は7月、配信コンテンツからでした。東京都の「アートにエールを!」の企画に4月に中止となった自身のシアターカンパニーの有志とオペラ〈フィガロの結婚〉の一場面に取り組むことにしました。個人の撮影、編集作業以外はすべての作業をZOOMとメールで行いました。手順としては、
- 指揮者による音楽の解釈、指示。
- 歌手と動きや画角の打ち合わせ。
- 映画監督との編集の打ち合わせ。
- 指揮者がピアノ伴奏を録音して、それを個々人が歌唱を録音。
- 音楽編集者が音楽を合成。
- 指揮者による修正依頼、再録、そして音楽の完成。
- 完成録音に合わせて芝居を2パターン、それぞれ撮影。
- 映像編集開始、仮編集、修正依頼…完パケ。
という流れでした。オペラは特にライブで電子による拡声なしに上演するものですから、映像コンテンツとして一切の対面リハーサルなしでの作業は初めての経験でした。およそ1カ月かけてできた映像がこちらです。
この映像の時点では、この取り組みはあくまでもコロナ禍における特別な表現だ、という意識が強かったと思います。
私にとっての本格的な舞台復帰は、8月29日から日生劇場で行われたホリプロ主催ミュージカルコンサートでした。これは、コロナで閉館していた日生劇場の再開公演でもありました。大学の授業もすべてオンラインで行っていたため、コロナ後初めて仕事のために外出することになりました。リハーサル開始前にPCR検査を受けて全出演者、関係者の陰性を確認して集まる様になったのもこのときからです。以来2020年度だけで10回以上PCR検査を受けました。コロナの恐ろしさ、後遺症については国内だけではなく、さまざまな国の友人たちから情報、論文を送ってもらっていました。早々と欧米は舞台を閉じていただけに、日本では舞台が行われることには非常に罪悪感がありました。舞台の仕事のために外出することはリハーサル室、劇場に人を集めることになり、感染の拡大の可能性を確実に増やすことになるからです。私は今日まで、少人数の舞台に限って参加する、と自分の中では考えていますが、舞台の仕事を続けることへの罪悪感を常に抱いています。
先述の通り舞台の仕事の復帰は、ホリプロ主催のミュージカルコンサートでした。コンサートは舞台のように1カ月強のリハーサルを重ねるわけではありません。しかし、ミュージカルは歌うので、マスク着用はもちろん、頻繁に取る休憩・換気時間など、これまでにない時間管理を行う様になりました。特に換気と消毒をホリプロの皆さんが徹底して行う姿に、これがコロナ禍におけるリハーサルを行う手順になるのだ、と身をもって感じました。スタジオには感染症対策の指導の方もいらっしゃり、全関係者が指導を受けました。20分に一度は飲み水で喉を潤し、流し込む様にという指導はそれ以後も実行しています。日生劇場に入ってからは仕込みもリハーサルも、そして本番も換気や消毒のために分刻みのスケジュールをあらかじめシミュレートし、公演が劇場から配信も行われたこともあり、タイム・キーパーに徹した仕事でした。劇場内でも土足で入れる場所の制限、客席に座る椅子の制限など、それまで慣れ親しんだ日生劇場の使い方が一変しました。また内容に関しては、コンサートを配信するために会場だけのアンコールを用意し、逆に配信だけの舞台裏映像を撮影したりと、それぞれの観客へのサービスを意識したプログラムを用意しての公演となりました。
9月4日にはロンドンで新作戯曲のZOOM試験公演がありましたが、こちらもZOOMでの打ち合わせ、リハーサルを重ねたうえでのライブ配信でした。
舞台上演を目指しイギリスの作家、俳優、演出家と取り組んできた作品ですが、舞台公演ができなかったからこそ時間をかけて台本の改訂に専念でき、配信をすることで多くの人の意見を聞くことのできる機会となりました。(Private Rehearsals)その後もロンドンは舞台上演が不可能な状況が続いているので、9月以降も改訂作業は続いています。
9月5日からは神奈川県紅葉坂ホールにて朗読劇「オペラ座の怪人」を上演しましたが、10月に大阪、新歌舞伎座で予定されていた公演は中止になりました。こちらは3月に〈オペラ座の怪人〉を翻案した台本を書き、その後作曲家による作曲、8月に1日でレコーディングを行い、最小限の対面稽古をしたうえで公演を行いました。この公演もライブ/アーカイブ配信をしましたが、ホールでしか体験できないと思われた多チャンネルの音声も音響デザイナーが配信用に提供して、配信用のコンテンツを一歩進めて、配信を意識した舞台づくりを行う様になりました。
9月25日からはスタジオにて主宰を務めるシアターカンパニー〈セヴィリアの理髪師の結婚〉の撮影を行いました。この公演は4月の公演を延期して9月に設定したもので、当初は舞台上演を予定していました。しかし長引く感染拡大を受けて何度も中止を検討しました。悩みましたが、私はカンパニーの主宰として譜面台を立てて台詞と楽譜を置き、リハーサルはZOOMを中心に進めて最小限の対面で撮影を行い、配信用の映像を作ることとしました。個人的なカンパニーにはPCR検査の支出は大きいですが、全員に検査を受けてもらいました。現在さまざまなライブエンターテイメントのジャンルが配信公演を行っていますが、オペラは2000人からなる劇場で生の声をオーケストラを越えて届かせるように訓練されていることに特徴がありますから、録音となるとその最大の魅力が封じられてしまいます。ライブエンタメの中で最も配信に向かないジャンルだと感じています。ですが採算は取れなくとも、最小限の対面と最大限の感染症対策を行うことで、ギリギリのオペラの演奏活動の存続の道を探りながらの取り組みでした。
10月24日からはシアターオーブにてTBS、PARCOなどの共同開催でミュージカルガラ「No Musical, No Life!ミュージカルを止めるな!」公演を行いました。
こちらは観客数規制の緩和された時期の公演で、2回の公演ともに2000席満席の公演で、お客様は皆さまマスクをした状態でしたが、久しぶりに満席の客席を見た公演でした。こちらもコンサートですのでリハーサル回数を限って行いましたが、それでも大勢のオーケストラ、アンサンブル、そしてプリンシパルが一つの舞台の上で演奏しますから、演奏者の間にパネルを立て、距離を空けての上演でした。
これらのコロナ禍における取り組みは多くの公演が中止になった中、新たに立ち上げ、または形式を変えての取り組みでした。ですが、3年ほど前から決まっていたオペラ公演が11月に日生劇場、12月に台湾でありました。日生劇場は演技をする歌手を1人に限定して曲をカットして客席は半数で上演し、台湾国立歌劇場では120人からなる出演者が舞台上の制限は一切なしに客席も満席で上演しました。この二つの公演は世界的に見ても、それぞれコロナ禍における舞台上演の両極端を代表する取り組みだと思いますので、その取り組みを詳しく書かせていただきたいと思います。
まず、11月の日生劇場〈ランメルモールのルチア〉公演についてです。
こちらは3年ほど前にオファーをいただき、アメリカから招聘デザイナーを呼び、美術、衣裳、照明のクリエイティブチームを結成していました。このことは私ももちろんですが、日本の劇場にとっても学ぶことが多い得がたい機会になるはずでした。チームでは通常のオペラ上演形式での解釈、デザインを進めてほぼデザインを終えていました。ですがコロナが深刻化し、アメリカからアーティストを招聘することは無理となり、国内のデザイナーに切り替え、新たにデザインをし直しました。一つのプロダクションで二つのチームが存在したことは初めてですし、デザインに至ってはそれぞれのチームでも何パターンもデザインを出してもらいながら、決めていったのです。
ですが、デザインの劇場へのプレゼンテーションが迫る4月となり、プレゼンテーションの2週間ほど前に通常形式での上演は難しいという劇場の判断となりました。それは私自身も同じで、劇場には今年の上演は中止にして他のレパートリーとなっている演目や演奏会形式にしたらどうか、と提案もしました。ですがその後、何とかできる方法を考えられないだろうかといっていただき、コロナ禍でのオペラ上演を考えることになりました。
そこからデザイナーとZOOMで会議をして、ではどういうコンセプトで行くかを話し合いました。舞台はやりたいですが、感染の危険をゼロにはできない中、出演者やスタッフにどうやって少しでも危険を回避する状況をつくり出すか。その見極めを悩みました。舞台をやらないのが一番安全です。ですが舞台人としてギリギリの選択ですが、では、最大限危険を少なくする方法はどういうことになるのか。私は演出家として、それをまず考えました。
前提として上演に際して、感染予防の観点から、劇場から指示された守るべき条件がありました。それは、
- カーテンコールを入れて90分に収めること。
- 休憩はなし。
- 合唱はなし。
- オーケストラもフルではなく縮小編成版(金管楽器をピアノで代用)。
ということでした。
この条件を守ったうえで演出家として私が死守したいと思ったことは、
- 物語が一貫していること。
- 音符に手を入れないこと。
でした。そうして私は最大限の安全策をとるためにどうしたらよいかを考え、また、作品の物語性から主人公ルチアの一人芝居にして、ルチアの部屋ですべてが演じられる、「ルチアの悲劇」を描こうと思いました。舞台上で演じて歌うのは最小限の一人だけ、ということです。それは、この物語がルチアを巡る政治的な策略や陰謀の犠牲になったルチアの物語になっていることから考えました。舞台ではルチアが歌っていない、通常は舞台上にいないシーンもルチアは部屋でどのように過ごし、感じているのかを描きます。ですので、ただでさえ歌唱技術的に困難を極める役柄であるルチアは舞台に出ずっぱりなうえに、歌と歌の間は短くなるという過酷な条件です。他の歌手は舞台のサイドで歌ってもらいますが、物語をルチアに集中させるために姿は客席からは見えないように紗幕を張りました。舞台で演じるのはもう1人、劇中で言及される泉の亡霊が俳優として出演しました。彼女は黙役になります。そして、通常のオペラとは異なる構成とはいえ、単なるハイライトや縮小版にはしたくありませんでした。ルチア一人に物語をフォーカスすることで、〈ランメルモールのルチア〉の中からルチアの悲劇を切り取り出せたら、という思いです。オペラの台本作家が原作小説から切り出した場面をさらに濃縮する作業です。演奏箇所に関しては、時間の制限の中でルチアに関係する場面を主に抜き出しました。当初、時間のことはあまり考えずにルチアの物語だけを描くとしたらどの演奏箇所になるか? を考えてカット案を出しましたが、曲の入れ替えや他の作品からの挿入、または新曲、編曲などはなしで行こうと話し合ったうえでの構成です。そうして指揮者と相談をしながら、演出スタッフに時間の計算をしてもらい、演奏箇所を決めました。セリフや黙劇は一切なく、すべてをドニゼッティの音楽で描ききるという決断です。
曲の構成が決まったら、ルチアの部屋ですべてが行われるという設定なので、それまでに美術家が考えていたデザインからはまったく変更となり、ルチアの部屋のデザインをしてもらいました。演出プランとしても、ルチアの一人芝居にすると決めた時点でコンセプトをまったく変えましたので、通常のオペラとしての演出プランはすべて棄てました。また、リハーサルの最中に、より安全な方法があるとわかったならば、それがたとえ公演直前であってもその方法にシフトすべきだと決意していました。
舞台公演では、本番のお客様の入った状態の感染対策ももちろん大切ですが、1カ月強のリハーサル期間をいかに乗り切るかが大切です。この公演はダブルキャストでしたが、二人を一緒に対面で稽古をすることはなくして日替わりで呼び、徹底して一人だけのリハーサルにしました。当然、亡霊役の俳優をリハーサルに入れ込むタイミングも慎重に考え、スタッフも同様に最小限にしてもらいました。PCR検査もスタジオに入る前、劇場に入る前に全員受けましたが、感染の危険は決してゼロにはできません。ですが、オペラの一人芝居を作るのに、どこまで危険を最小限にできるかを考えて取り組みました。通常は一日正味6時間の稽古時間も、音楽稽古と立ち稽古を4時間の中で分けて行いました。
芸術的な、演出的な判断よりも安全上の判断を優先しながら、ですがその中で最大限の物語を伝える舞台づくりに挑んだのです。コロナ禍における特殊な上演版でしたが、現場は通常の上演と比べても恥ずかしくない、今年だからこその舞台を作るという気概に溢れており、非情なまでに感染予防に拘る取り組みをしました。結果として作品の一部をカットしていることや、演じる歌手を1人だけにしたことで一部批判もありました。ですが、舞台上演を行うという決意をしたうえで、危険を最大限削るための方法を選択しての上演でしたので、批判はすべて引き受けたいと思っています。
そうして私は日生劇場の学校公演の初日を開けた翌日に台湾へと飛びました。この仕事は3年前から決まっていたのですが、チューリヒ歌劇場と台湾国立歌劇場の共同制作で、台湾で11月23日から立ち稽古が開始される予定でした。演目は120人が出演するオペラ〈ボエーム〉でした。チューリヒ歌劇場の総裁アンドレアス・ホモキさんのコーミッシェ・オーパー、ベルリンでの演出舞台の再演で、私はベルリンと日本でこの舞台に参加、再演を担当していました。ホモキさんも舞台初日の2週間前に台湾に来て一緒にリハーサルをする予定でしたが、隔離期間を計算するとリハーサルにまったく参加できないため、残念ながら来ないことになってしまいました。
日本でのオペラの一人芝居から、台湾での120人のフル舞台への移行は私だけが経験できた得がたい経験となりました。この台湾での経験はコロナ禍における舞台づくりだけではなく、多くのことを気づかせ、教えてくれました。
当初私は、日生劇場の〈ルチア〉公演が11月15日に終わりますから、それから11月23日からのリハーサルに合わせて向かうつもりでした。しかし台湾に入国してからのQuarantine、隔離期間の2週間が必要なため、11月15日に離日したのでは稽古に間に合いません。計算すると11月9日に日本を出ないとリハーサル開始日に間に合わないのですが、学生公演が10,11日にそれぞれの組の初日で、どうしてもそれは見届けたかったですし、11日に行われるプロダクションのデザインプロセスを解説する舞台フォーラムにパネラーとして出演しなければならなかったため、11日を待って出発するしかありませんでした。
後からわかったのですが、台湾とは時差は1時間ですし、フライトも4時間程度なのですが、到着した日は隔離期間にはカウントされず、実質的には台湾に到着してから16日目に隔離が終わるという計算でした。台湾への入国は、VISA以外にフライトの3日前以内のPCR検査陰性証明書(英語)が必要でした。台北の空港に到着したらまず、携帯電話の契約をします。それがこれからの隔離機関に警察との連絡手段となると同時にGPSとなっているのです。そうしてやっと入国を許可されます。空港の出口では専用の運転手が待っておりホテルまで連れて行ってくれます。空港から台北の隔離ホテルまでは1時間半ほどかかりましたが、車の中から見る市街ではマスクをしている人もいて、台湾は感染者ゼロと聞いていたのに不思議な気がしました。後からわかったことには、国内感染者はゼロであっても空港では感染者が見つかることがあり、完全なる感染者ゼロではないとのことでした。
そうしてホテルに到着してもチェックインの手順はなく、ホテルの地下まで車で連れられます。部屋は鍵が開いているのでそのまま入って2週間出ないようにといわれ、降ろされた場所は床、壁、天上がビニールで囲まれ、防菌加工をされた廊下にあるエレベーターの目の前でした。もちろん従業員はおらず、荷物もすべて1人で運びます。そこからはもう誰とも会うことなく、鍵の開いた部屋まで直接行きました。つまり、この空港に迎えに来た運転手が、私が日本を出発してから2週間の間、最後に会った人物でした。当初、劇場のプロデューサーからいわれていたホテルの部屋から出てはいけないという意味がわからず、ホテルの目の前のコンビニなどに行ってよいのか? その距離はどこまでなら許されるのか、と尋ねましたが、残念ながらホテル内を歩くこともできず、本当に一歩も出てはならない、とのことでしたが、ピンときていませんでした。ここに来てやっとその意味を初めて実感しました。Quarantine期間はルームサービスはもちろんなく、1日に3度の食事が部屋の前のボックスに入れられ、電話が鳴ります。たまたま同じタイミングに食事を取りにドアを開けた人たちと顔を合わすことはありますが、それさえもはたして現実かどうかわからないほどに、皆がまるで悪いことでもするように軽く会釈を交わすだけで一瞬で食事を取り、ドアを閉めます。毎日警察からメールや電話が届く2週間は、1月末に日本で上演する朗読劇のために「モンテ・クリスト伯」を執筆していた私にはまったくペースが合わず、何度も作業を中断されたり起こされたりしましたが、うっかりメールを見落として返事をしないと、すぐに電話がかかって来ます。そんな厳重な体調管理とGPSによるホテルの部屋から一歩も出ていないことを確認する体制でした。
一週間ほどが経ち、エアコンなどは快適にコントロールされているのですが、さすがに空気を入れ換えたくて、部屋からは出ませんがドアを開け放っていたら、すぐに防護服姿の従業員が飛んで来て、ドアを閉める様にいわれました。初日に入居してから廊下は食事やタオル等の取り替えのためにボックスでのやりとりのときに見るだけだったのですが、たまたま従業員が通りかかったのか、監視されているのかどちらだろう? と思ったものです。隔離期間が終わりホテルを出るときに初めてわかったのですが、ホテルの廊下はセンサーがいくつも設置されており、監視カメラも随所にあり鉄壁の管理だったことを退去時に初めて知りました。
私が行けない間のリハーサルは、私の演出スクリプト(芝居の指示を書いた楽譜、台本)を演出助手、ステージマネジャーにデータで送ってありました。何度かのスカイプ、ZOOMでの打ち合わせでリハーサル内容を助手とスタッフに確認して、稽古初日を迎えました。稽古はスカイプでつながっておりましたが、挨拶とコンセプトを伝えるだけで精一杯でした。具体的な指示はやはり私がスタジオに行ってからでないとできないので、おおよその動きを助手につけてもらい、質問があれば答える程度で見学をしていました。特に合唱は大人が60人、子供が27人いましたので、とてもスカイプでは対応できないので、私の参加前日に予定されていた合唱初日稽古は音楽稽古に変更をしてもらい、私が現場に行ってからの立ち稽古にしてもらいました。現在も世界中でオンラインでのリハーサルを行うことがありますが、やはりまだ対面に勝る手段はありません。
そうしてついに11月27日の午前0時がやって来て、私の隔離期間は終わりました。リハーサルは午前10時からでしたから、それに間に合う様に朝の5時に専用のタクシーが迎えに来て台北のホテルを出発し、台中のホテルに7時ころに到着。荷物だけ置いてカンパニーの通訳さんに連れられてPCR検査を受けに行きました。そうしてやっと、スタジオに行ける段階になりました。
リハーサルルームはそれまでスカイプで見ていたリハーサルとは異なり、皆がマスクをしていました。それは、私のPCR検査結果が16時に出るまでは周りの人たちも皆、マスクをするという徹底ぶりでした。そして実際に稽古が始まりましたが、マスクはしていたものの広い稽古場では以前の通り、思いっきり動いて、喋って、身体的なコンタクトももちろんあり、で稽古をしました。最初の休憩時間には私のPCR検査結果の陰性が伝えられ、その場で皆でマスクを投げ捨てたのを覚えています。それ以降外出するときもマスクはなしで、まるで時差が1年間あるかのような生活をしていました。立ち稽古初日の次の日にはふくらはぎが鈍く痛み、理由がわからず驚きましたが、何のことはない筋肉痛でした。半年以上フルで稽古をしていなかったので、身体が相当なまっていたのです。その稽古初日、実は稽古中に台湾警察からメールが来ていたのですが、稽古中ではまったく気づかず、電話が10件以上入っていたことが稽古後にわかりました。そこはプロデューサーにお願いをして対応してもらいました。隔離期間の2週間が終わっても、その後も1週間は警察からのメールでのチェックが行われました。一週間が経つと、何ごともなかったように突如連絡は来なくなりました。
11月23日が立ち稽古開始日でしたが、台湾のソリスト、合唱に対する音楽稽古は9月末から行われていました。音楽コーチのドイツ人指揮者は、9月末の稽古のために9月半ばから台湾に滞在し、稽古を開始していました。ただ、私と同じく国外から参加する招聘歌手は11月23日の立ち稽古開始を想定してスケジュールを組んでいたため、2週間の隔離期間を取ると稽古参加が遅れる歌手が多く、また、PCR検査の結果が予定よりも取ることが遅れたとか、陰性証明書をイタリア語でしかもらってこなかったので取り直し…などで稽古参加が遅れる歌手が続出し、一年かけて組んできた稽古スケジュールは崩壊しました。それでも一日3コマの稽古をして急ピッチで芝居をつけていきました。一コマが3時間で、9時間の稽古ですが、リハーサルに参加できなかった歌手が21時にやって来て、22時まで稽古ということもありました。演出家としてのリハビリ期間が一切ないままに、立ち稽古を全速力で駆け抜けることになりました。
台湾での稽古はコロナ前と同様、最初は一日3コマ、おおよその芝居がついてからは2コマで進み、一週間に一度のオフ日がありました。オフ日といっても芝居の見直しや、次の週に行う場面の準備でオフにはならないのですが、少し散歩をしようと出たまち中ではマスク姿の人も少なくありませんでした。リハーサル中は作品のことで頭がいっぱいで観光などは一切考えられず、スタッフや歌手ともリハーサルが終わったらすぐに解散という日々が続きました。食事も現地の食堂ではどう頼んでもよいかわからず、やっと見つけたマクドナルド、すき屋、ケンタッキーフライドチキンで夕食を済ませることが多かったです。さすがにそれはまずいと思い、スタッフにお薦めの場所を聞いた所、ナイト・マーケットを教わり行ってみました。最初に出会った人気の、列ができている所に並ぼう! と決めていました。実際長い行列の店に並んでいざ注文、となった段でたこ焼き屋だとわかりました。他にもいくつか買ったのですが、韓国料理だったり、タラバガニスティックなど、およそ台湾のローカルフードではありませんでした。ただ、タピオカなどの巨大な飲み物はさすがは台湾! の価格と量で、リハーサル中もスタッフがよく差し入れしてくれました。一度、オフ日前日のリハーサル後にスタッフたちで食事に行きましたが、現地の海鮮レストランで、とてもとても一人では注文できる自信のないものでした。隔離期間中のお弁当は厳しかったですが、市中に出てからの食事はとても豊かでした。リハーサル期間中に誕生日を迎えたのですが、皆がリハーサル室外の廊下で開いてくれたピザ・パーティーでの暖かさ、たこ焼きピザは忘れられません。
劇場は日本人の伊東豊雄さん設計の2016年に開場した劇場です。以前所属していた新国立劇場に雰囲気が似ていたこともありますが、いざリハーサルとなるとそこが欧米でも日本でも台湾でも同じです。リハーサル中は英語で進むこと以外は日本とまったく変わらず、半袖のTシャツ一枚でリハーサルを続けていました。ただし、1年前の世界の状態で。
そんな台湾ですが、新しく海外からの招聘歌手が稽古に参加するたびに皆がマスクをつけるのは、2週間の隔離期間が終わってもPCR検査で陰性が出るまでは用心する変わらぬ姿勢です。リハーサルはさまざまな困難があり、一部の歌手の何をいってもできない、そしてやらないという態度に怒って稽古場を出て行ったこともありましたが、誠実なスタッフと献身的な出演者たちのおかげで公演初日、プレミエに向けてリハーサルを重ねていきました。そんな中、12月1日からは公の場所ではマスク着用が義務づけられました。国内感染者ゼロを誇る台湾でも、世界的なコロナ禍において寒くなる冬は一層気を引き締めて、との姿勢です。台湾の劇場でオペラ公演をフルで行うことをソーシャル・メディアやニュースで知って、世界中の友人たちからメッセージをもらいました。台湾ではこれまでと同じようにリハーサルを行っていることが信じられない様子で、世界でただ1カ所、一切の制限のない舞台づくりができている場所だということを再認識します。
そんな台湾でも私の滞在中に3回、コロナ危機のニュースがありました。1回目は隔離期間中の人が、同じホテルで隔離生活を行う友人の部屋を訪ねようと8秒廊下に出たことで、36万円の罰金を支払ったというニュースでした。ドアを開けて換気さえ許されない生活を経た者として今では理解できますが、にわかには信じられないニュースです。ですが台湾のコロナ対策、政策を知り、国内感染者ゼロを続けている偉業を私たちは理解して、その厳しいルールにも尊敬を持って従うべきだとはっきりということができます。厳しすぎる様に見える罰則ですが、その厳しさがあってこその封じ込めですから。
そのほかにもインデネシアからの出稼ぎ労働者が二人、2週間の隔離期間後のPCR検査で陽性が発覚して強制送還、すぐにインドネシアとの人の渡来が禁止されました。彼らはPCR陰性証明書を持って台湾に入ったのですが、実は高価な検査を受けることができずに偽の証明書を安価で買ったもの、とわかったそうです。偽造パスポートは知っていましたが、偽造PCR陰性証明書までとは、人の弱みにつけ込んだ商売は許せません。実際に彼らも家族に仕送りをするために台湾に来るのであって、コロナをばらまく意図があるわけではありません。厳しい現実を知る事件でした。この時点で外国人に対する台湾政府の警戒は一層高まり、私は台湾で受けたPCR陰性証明書を提出し、私よりも台湾に長期滞在をしていた指揮者はあらためてPCR検査を受けていました。
また、台湾の大都市をまわるツアーを組んでいたモスクワのバレエ・カンパニーが大勢で台湾に来ましたが、2週間の隔離期間後のPCR検査でまず4人が陽性と判断され、その後も4人が陽性とわかり、すぐに台湾ツアーは全て中止、全員がモスクワに強制送還となりました。このニュースは、劇場の人たちもチケットを買っていたこともあり、大きなショックを与えました。モスクワでのPCR検査の精度についても問題がありますが、何よりも彼らは皆、無症状感染者だといわれています。帰国してから台湾のコロナ封じ込めの報告書や天才IT大臣と呼ばれるオードリー・タンさんの本を読み漁りましたが、台湾の2019年年末からの情報把握能力、水際対策、マスク配布政策、封じ込め、隔離政策など…多くの封じ込め成功の要因があると思います。
ですが、封じ込めに成功している現在において感染拡大を防ぐ一番の方法は、PCR検査で“無症状感染者”を見つけ出すことだと痛感しました。これを書いている2021年1月現在、世界中で37.5度以上熱のある人や、咳き込んでいる人たちが感染を拡げているとは思えません。その様な人がいたら誰も近寄りませんから。しかし、無症状感染者は本人が自覚しないまま、年齢を問わずにまち中を移動しています。このことが一番怖いのだと痛感しました。台湾にいる間も帰国してからもさまざまな国の人たちと連絡を取り合っていますが、台湾のコロナ対策から世界が学ぶべきことはとても多くあります。現在では変異種の問題も出てきていますが、発症前の保菌者は、症状の出る人は時間が経てば症状が出て自覚できるのですが、本人も周りもわからない無症状感染者の特定は世界中の課題だと思います。
台湾での舞台は120人の舞台の上の出演者だけでなく、大勢のスタッフ、フル・オーケストラ、そして2000人の満席の観客と、コロナ禍前の制限のない舞台が2020年12月末に世界で唯一行われた公演でした。このことはひとえに台湾の政府、国民の能力、規律の賜物ですが、その成果に演出家として携わらせてもらえたことは舞台人としてだけでなく、人間としてとても大きな学びと喜び、そして敬意を抱く、得がたい、忘れがたい経験でした。
12月末に帰国してからの日本での2週間の自宅での隔離期間を経て、2021年1月はサントリーホールでの成人の日コンサート〈魔笛〉から活動を開始しました。緊急事態宣言が出たこともあり、公演は無観客の配信のみになりました。出演者はPCR検査を受け、リハーサルではマスクをしながらでしたが、リハーサルは4時間に限られ、40分を目処に休憩、換気を行いながらのコロナ時代のリハーサルでした。台湾でフルにリハーサルをする身体に戻っていたため、マスクをしながらのリハーサルでも手加減ができずにいきなり酸欠から偏頭痛になる日本でのリハーサル復帰初日でした。それからすぐに台湾で書いていた「モンテ・クリスト伯」の1月23日からの朗読劇は中止となり、1月24日の〈カルメン〉のハイライト公演は歌手の間の距離を取り、マスクをしての稽古を続けて本場に臨みます。PCR検査も受け、換気、消毒も徹底し…それでも…
多くの方々が感染に怯え、苦しみ、後遺症が残り、そして亡くなった人々がいます。そして、さまざまな業種の方々が生計を立てるために苦悩し、葛藤しています。コロナというウイルスに私たちはまだ対抗する手段を確立できていません。その状況下でライブ・エンターテイメントの意味をあらためて考え、あり方を模索する日々を包み隠さずに書かせていただきました。台湾での学びを得ながらも、拡大が止まらない中で舞台活動をすること自体に、私は罪の意識を強く感じています。そして、その罪の意識を持ち続けなければならないことに日々心を痛めています。舞台活動を休止することが一番の感染予防に貢献することと知りながら…。ワクチン、治療薬ができるまでは安全を約束して出演者、スタッフをスタジオに集められず、お客様を劇場で迎えることができない状況です。現状では危険はゼロにはできず、できる限り減らすことしかできません。私の取ったこれらの舞台活動が感染拡大防止の視点からは正当化されることは今後もないと思っています。ですがこのレポートによって、コロナ禍において一人の舞台人として、どの様なことを体験し、考え、学んで来たか。そしてどう悩みながら過ごしているかをお伝えできたら、と願ってやみません。長文をお読みいただき、本当にありがとうございました。
(2021年1月24日)
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