アートと福祉の大海に漕ぎ出す話
アートと福祉が交差する場所に身を置いて13年ほどになります。コラムの依頼をいただいてからずいぶん迷いましたがすこし回り道をして、私が学生だったころの話からはじめます。
たまたま出会う
神戸で障がいのある人との音楽活動をしていました。在宅でほぼ寝たきりで過ごす青年や、作業所に通う人たちのもとを定期的に訪れ、即興セッションを重ねていたときもあります。音楽をしに行っているのですが、不思議なことに自分の存在を受け入れられているような、他では得たことのない感覚がありました。もちろん音楽的な技術の拙さもあって撃沈し、一緒に活動していた先輩と落ち込んで帰ることも何度もありました。それにしても、「受け入れられている」という感覚はどこから来ていたのか。今思うと、この時間は安心して自分を表現できて、それを受け止めてくれる(あえて、放っておいたり無視したりすることも含めて)、という信頼に基づくものだったように思います。その相手が私の場合たまたま障がいのある人だった、障がいのある人がいる環境だったということなのかと今は考えています。
その後、音遊びの会 ※1 にかかわり、安心して表現をすること、安全を確保すること、障がいのある人とともに舞台にたつこと、はその時々の状況や立場によって両立したり拮抗したり、優先順位が変わってくることを実感しながら、運営スタッフとして試行錯誤を体験してきました。
多様な人が集まる環境でこうした場をつくり、継続していくことは、簡単なことではありません。一人ひとりが尊重され豊かな表現がうまれる場所にうごめいている生命力のようなものに心打たれていました。
※1:知的に障がいのある人や音楽家、アーティストなどで構成される即興表現集団。2005年以来、毎月のワークショップや不定期で舞台公演を実施している。
たんぽぽの家のこと
今、私は奈良にあるたんぽぽの家で仕事をしています。たんぽぽの家は障がいのある人の詩を音楽にのせて届ける「わたぼうし音楽祭」や市民による自律的な芸術文化発展をめざす「エイブル・アート・ムーブメント」など、アートをとおして障がいや福祉に関する価値観を問い直し、別様のあり方を提案してきました。また、企業やNPO、行政などと連携したプロジェクトや、セミナー、出版事業なども同時に展開し、アート×福祉について異なる分野の人たちと対話したり学び合う機会をつくってきました。2004年にはアートセンターHANAがオープンし、絵画や陶芸、織物といった造形表現や、演劇やダンスのようなパフォーミングアーツにも取り組んでいます。障がいのあるメンバーそれぞれが自分の得意なことや好きなことを仕事にし、生活を送る場であり、同時にそうした活動や理念を地域や社会に発信する拠点でもあります。
いくつか、具体的な活動を紹介しながら考えてみたいと思います。
アートセンターHANAで活動する演劇チームHANA PLAYの創作は、メンバーの日常や思い出を話し合うところから始まります。既成の話を台本通りに覚えて演じることは難しくても、自分のこととして実感をもって話せる物語や言葉であれば、稽古を重ねて表現することができる。ゆっくり話す人や声の小さい人、言葉をはっきり発するのが難しい人などいろいろな人がいますが、話し方や存在の仕方の異なりを均さずに鮮明にしていくことによって、「演劇をする障がいのある人」ではなく出演者一人ひとりが、過去の時間も含めて一人の存在として立ち上がってくるように感じます。HANA PLAYの稽古をみるたび漠然と、福祉というものが実現したいのはこういう状況ではないか、と思うのです。
……ちょっと大げさにいいすぎたかもしれません。無理をして何かを表現するのではなく、その人がすでにもっているものを引き出し、活かせる、受け入れられる環境。そうした場を、演劇を通してHANA PLAYの活動がつくっているとしたら、それはやはり福祉のめざすものの一つであり、その表現にふれた人にも、自分の日常に引きよせながら伝わるものがあるのではないでしょうか。
もう一つ、パフォーミングアーツの話をします。のちにダンス事故、と名づけられた舞台公演がありました。出演メンバーの奥谷晴美さんが開始早々に車いすの上で発作を起こしてしまったのです。長年晴美さんと即興ダンスを続けてきたジャワ舞踊家の佐久間新さんと音楽家ジェリー・ゴードンさんによる2011年の公演のことでした。上演したのは「うまれる」という作品。結婚や出産に憧れた晴美さんが白いドレスを着て踊るというものでした。おそらく舞台上で気持ちのコントロールができなくなったのではないかと思います。見守るスタッフや、何より佐久間さんやジェリーさんも迷いながら、舞台は中断することなく続行し、結果的に二度と起こらないような即興の舞台になりました。佐久間さんはこのときのことを「衝動から生まれる美しさと苦しみは表裏一体なんだろう」と振り返っています ※2 。
※2:『ソーシャルアートー障害のある人とアートで社会を変える』(2021年、学芸出版社出版) p119
今たんぽぽの家が直面しているのが、メンバーの変化です。たとえばメンバーの武田佳子さん。1985年に油絵具に出会い、以来ずっと描くことに魅了され、描き続けてきました。油絵を描くことが体力的に難しくなってからは、別の画材にも挑戦しながら2002年ころからは水墨画へ移行、サポーターとの共同制作へと制作スタイルが変化しています。作家活動から30年2014年の展覧会で武田さんが語ったのは「山口百恵はマイクを置きましたが、私は筆をおきません」という言葉。その思いにどうこたえるか、こたえられる環境をどうつくっていくか。「Art for well-being心身機能の変化に向きあう文化芸術活動の継続支援と社会連携」(令和4年度文化庁委託事業「障害者等による文化芸術活動推進事業」)というプロジェクトのなかで試行錯誤をしています。
アートミーツケア学会のこと
たんぽぽの家に事務局を置くアートミーツケア学会 ※3 から発行した『受容と回復のアート―魂の描く旅の風景』(2021年、生活書院出版)には、パートナーとの死別や震災、公害など理不尽ともいえるような困難に直面したとき、どういった選択をし、生き抜いてきたのか。そうしたときの他者との出会いや表現との接触についての文章が収められています。筆者の一人であるほんまなほさんは「よくなること、うけいれること、もとにもどること、そのいずれでもない。しかし反対に、生きること、生きつづけることの日々の選択が、それらのことばの意味そのものをかえてしまう。受容と回復の意味をかえること、かえつづけること、それこそが生の問いかけとしてのアート」(p5)である、と語っています。先に触れたたんぽぽの家の武田佳子さんとの取り組みもまた、「生の問いかけとしてのアート」の実践と実験であるといってもいいように思います。
※3:アートやケアにかかわる研究者や実践家の会員200名ほどで構成される。2006年設立。年次大会の実施やオンラインジャーナルの発行などの活動を実施している。2022年12月には東京学芸大学で教育をテーマにした大会を開催予定
『受容と回復のアート』のなかで、インドのスラムの子どもたちと造形活動をする西村ゆりさんはこういいます。「一緒の場を作りたい。貧乏やからといって差別しない。お金持ちだからといって排斥しない場所」(p138)。自身も水俣病患者でありながら、認定申請をとりさげ、命をかけて書いた書を背にチッソの前で坐り込みをした緒方正人さんはこういいます。「私ももうひとりのチッソであった」「伝えないと、書き終えないと死ぬことすらできない…(中略)…チッソの正門前という、それが舞台だったんです」(pp207-pp210)。つまり、加害者としてチッソを当然のように対象化していたが、自分がチッソにいたら同じことをしなかったといえる根拠は一切ない、ということ。チラシをばらまくのではなく、自分の偽らざるところを書き、チッソの前に坐り込むという表現で十分だったということを語っています。
アート×福祉?―まとめられませんが……
アートと福祉が接触するとき、そこには相性のよさだけでなく、時に摩擦や緊張感があるからこそ、異なる立場の人との対話がうまれ、誰もが自分を表現し、受け入れられ、よりよく生きることについて考えることができるのだと思います。
今回コラムを書くにあたって、たんぽぽの家の社会的な活動を語る前に、「アート×福祉」にまつわる個人的な感覚から出発したいと考えました。締めにさしかかり、まとめきれずに藁にもすがる思いで記憶から手繰りよせたのは「社会は一人ひとり」という言葉。アートとケアに関する議論のなかで聞こえてきたフレーズです。
なんともたわいもない言葉になってしまいますが、アート×福祉の核にあるのは、一人ひとりをよく見て大切にすることではないかと思います。一人ひとりをよく見た結果、見えてきたものにたいして、判断を保留する、あるいはその背景や奥にあるもの、今は見えていないものを想像する、ということかもしれません。
アートも福祉も射程のひろい言葉ですが今回は主に、障がいのある人のかかわる現場の話でした。アート×福祉に見る可能性のごく一部です。うんうん唸りながら、ようやく舟を漕ぎはじめたような文章になってしまいました。このリレーコラムでは来年3月まで毎月、さまざまな分野で活動されている5名の方に登場いただく予定です。皆さんに登場いただいたあと、さらなる対話がうまれるといいなと思います。
(2022年9月27日)