動物園の思い出
ちょうど息子が2歳になったばかりの頃だったろうか、名古屋の自宅近くにあった動物園に親子二人で訪れた際、興味深い体験をした。その動物園は幼少期によく連れて来てもらっていため、子どもを連れて行く立場になったことに感慨を覚えながら園内を回るうちに、見覚えのある場所に出た。そこが小学一年生の遠足でキリンの絵を描いた場所だと気づくのに、さほど時間はかからなかった。そのときの絵が何かのコンテストで入選して立派なメダルをもらったことが印象深かったからだ。
早速柵の中を見せようと息子を抱き上げたのだが、彼はなぜかあさっての方向に気を取られて、キリンなどそっちのけの様子だ。息子の視線の方に目をやると、どうやらキリンの柵の中にハトが入ってきたようで、息子は「ポッポ、ポッポ」と指差してその動きを楽しそうに追っていたのだった。わざわざ動物園にまで来てハトはないだろうと思い、何度か息子の視線をキリンの方へと誘導しようと促したものの、彼はハトに夢中のままだ。私はキリンよりもどこにでもいるハトに反応してしまっている息子に一瞬苛立ちを覚えてしまったのだが、今思えば珍しい動物を見せたい一心で、彼の興味の赴く先を遮ろうとした自分の狭量さへの苛立ちも含まれていたように思う。
取るに足らないものとして親が無視をしたものに息子は興味を惹かれ、夢中になっていた。単に子どもはものの見方を知らないからだという意見もあるだろうが、私の方は適切な見方をできていたのかと問われれば、はなはだ心もとない。なぜなら彼が注意を向けなければ、たまたまキリンの柵に入り込んで来たハトの姿など、視界にも入っていなかったどころか、当のキリンさえもろくすっぽ見ていなかったのだから。したがって、どちらがものの見方をより知っているかについては、判定し難いところがある。
小林秀雄の『考えるヒント3』のなかに、人は菫の花を見てもそれを菫だと言葉で了解してしまった途端、眼を閉じてしまうという話があったが、それに従えば、私はキリンにもハトにも眼を閉じていたことになる。キリンの柵の内にたまたま入って来たハトは、動物園という展示空間においては、ノイズのようなものにちがいない。そうした取るに足らないものに関心を寄せる子どもの知覚は、未熟で非常識なものかもしれないが、大人が見逃してしまうようなものに反応することができる別の豊かさに開かれているとも言えるのではないだろうか。そんな息子も次第に見るべき中心とその他の脇役を区別できるようになり、彼の反応に驚かされることも少なくなっていった。そして、それが成長したということなのだろう。
子育てをしていると、どうしても子どもの自発性や逸脱に見える行動を抑圧したり、制限して常識的なふるまいを身につけさせることに多くの時間を割くことになってしまう。そうでないと社会生活を営む上で困る問題が出てくるし、危険な目に遭うこともあるからだ。
「整列」「気をつけ」「休め」「左向け左」「回れ右」「全体止まれ」「前へ倣え」。多くの人が小学生の頃、よく耳にした言葉だと思う。当時は私も何の疑問もなく行なっていたが、あの軍隊のような動きは、果たして子どもに社会的な規範を身につけさせるのに必要なことだったのだろうか。前へ倣うような型にはまった人間を効率よく量産するベルトコンベアー式の教育。それが近代国家としての日本が採用し、戦後にも生き延びている教育方針ということなのだろう。
そんな義務教育を受けてから数十年、大学で教鞭をとる立場になったが、自分は前に倣うことを勧める大人になってはいないだろうか。この春、小学生になった息子を校門まで送り届けた帰途にそんなことを考えた。
今後の予定
沖縄の劇場「なはーと」で博覧会における人間の展示についての展覧会を9月末より予定しています。博覧会では非西洋社会の人間が展示されることがありました。今では考えられないことですが、当時はそれほど疑問視されず、エンターテイメントとして受け入れられていました。レイシズムやグローバリズム、コロニアリズムなどについて考える契機になればと思っています。また、関連書籍として『帝国の祭典——博覧会と〈人間の展示〉』(仮)を準備中です。
次回執筆者
バトンタッチメッセージ
町村悠香さんは町田市国際版画美術館学芸員です。町村さんが企画した「彫刻刀で刻む社会と暮らし——戦後版画運動の広がり」展(4月10日〜6月23日)は、学校教育における版画の歴史をテーマにしたもので、戦後という経験やそれを規定した日米関係をも顧みることができ、大変ユニークな試みでした。個人的な関心とも重なる部分が多くありましたので、今後の企画にも期待しています。