世界をひたすら繋げ!!! セルフマネジメントがアートマネジメントに!!!
現代アートに携わるひとなら、「肩書き」という項目に記入する時、いつも困ってしまう。みんな迷わず記入することができているのだろうか? と思うことがある。私の場合を例にとって考えてみると、一応「美術展企画・写真家」という肩書きを用いているが、これでは何も伝わらず、もどかしい気持ちが何時もある。
1974年というLive Houseの黎明期に、岡山でLive Houseを立ち上げ今日まで活動を続けてきた。当時はエクスパンデッド・シネマが映像の世界に影響を与え始め、東京では「国際サイテック・アート ELECTROMAGICA'69」展が1969年に開催され、翌70年にはジュリー・マーティンとビリー・クルーヴァーがアーティストたちとコラボレートしたE.A.T.が大阪万博でパフォーマンスを繰り広げた時期でもあった。そのような前衛的というより、実験的な表現がフルクサスの余韻のなかでまさぐられていた時代を引き継ぐべく岡山でLive Houseペパーランドを立ちあげたのである。
当時、映画評論家・佐藤重臣氏のフイルム・アーカイヴが配給したロナルド・ナメス監督作品「ウオーホルE.P.I.」の映像が「エクスプローディング・プラスティック・イネヴィタル」の現状を伝えていた。そこにはルー・リードが、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドが、サイケデリック照明のライト・ショーとともに、パフォーマンスやメディア・アートと一体となった映像で、ミックスド・メディアの状況が捉えられていた。今日いうところのマルチメディア・ショーである。
このような表現空間を確保するためにD.I.Y.の精神で映写設備を兼ね備えたLive Houseを始めたのである。そしてこの空間で音楽のみならず、エクスパンデッド・シネマ、個人映画、実験映画、ポエトリー・リーディング、地下演劇、絵画展...等を展開、プロデュースしてきた。つまり、小さいながらも自然な形でアートマネジメントに携わっていたのである。
そのような中で、かわなかのぶひろ、金坂健二、飯村隆彦の諸氏と交流が始まり、映像表現を開始し、その頃に制作した映像作品「フルクサス・フイルムズ」(1971)が「ジョン・ケージのローリーホーリーオーバーサーカス」展(水戸芸術館1994)にてJ.ケージのメソッドにより上映され、「山形国際ドキュメンタリー映画祭'95」(1995)は映画作品「共同性の地平を求めて」が、また、実験映画の大回顧展「アンダーグラウンド・アーカイブス1958→in Kobe Kyoto Osaka」(2001)でも選出上映されることとなった。そして最近ではアート・フェスタ那須2009「山のシューレ」にて「共同性の地平を求めて」が再び上映され、この映画の内容を巡っての対話をおこなった。これらの経緯が私に作家の側面を持たせ、ミックスド・メディアへ向けてのプロデュースが日々のLive Houseの中で自然な形で実践模索されていった。
この実践が後にアートマネジメントと呼ばれるようなアートイベントのディレクションの基礎となった。備前市在住のフルクサスの作家・林三従氏による備前市商工会議所主催「備前アートイベント」のアシスタント・ディレクターを務めた1989-95年までの7年間と、尾道市立美術館開館20周年記念展「龍の國尾道・その象徴と造形」展の監修をするにいたり、次第にペパーランド以外の場所でアートマネジメントを行うようになった。
私のディレクションの原点をさかのぼるならば、1971年に創刊したObject Magazine『遊』(工作舎)に出会ったことが一番のきっかけであった。この雑誌の編集者・松岡正剛氏なら理解してもらえると感じ、創刊当時の工作舎に拙著『サイボーグ論』を送付した。松岡氏との親交はそこから始まった。『遊』がめざした、学問や表現領域を跨いで横断し、それぞれの概念を対角線上に重ね併せる編集はまさに概念のミックスド・メディアであり、'70年代の新表現を模索していた状況を切り開くものであった。その後、準備期間を経て1978年から現在まで、松岡氏が提唱した「遊学」に基づく研究会「岡山遊会」を月例で主宰し、幾多の表現者の基礎的考え方を参加者とともに学んでいった。そして、現在では「岡山遊会」の参加者による「敦賀遊会」(伊吹圭弘主宰)や「四国遊会」(甘利彩子主宰)が各地で開催されるに至っている。このような拡がりとともに、私自身、松岡正剛主宰の「ISIS編集学校」師範を2002年から現在にいたるまで務めさせていただくなかで、自らの作品として概念のミックスド・メディアそのものを作品化した「遊図」を発表するに至った(2004年に開催された岡山・倉敷市連携文化事業「スペクタル能勢伊勢雄1968-2004」展にて初公開)。
「遊図」とは、前述したように領域を横断し概念を結び付ける遊学的な「知図」を作品化したもので、フランスの博物学者ロジェ・カイヨワが「対角線の科学」と名付けたものだ。やもすると得意領域に閉塞しがちなわれわれの認識を、あえて領域を跨ぎ大胆に折り重ね合わすとき、そこに一筋の対角線が現われる。この「対角線」を語ることの必要性をカイヨワは語った。例えば人類文明と昆虫の世界が折り重ね合わされ、文化人類学が看過してしまっていた文明史が立ち顕れるという具合に...。美術史的にはシュール・リアリズムが表現の袋小路にさしかかる時期であった。
カイヨワがアンドレ・ブルトンとおこなった有名なジャンピンズ・ビーンズ(飛跳ね豆)論争がある。この論争以降カイヨワがシュール・リアリズムと決別したという事件である。そこには飛び跳ねる豆のイメージの面白さしか見ないブルトンの認識に対し、カイヨワは豆に棲ぐう昆虫を問題にし、イメージと昆虫学を折り重ね合わせたのである。「対角線の科学」の始まりであった。
カイヨワのこの視線はシュール・リアリストの単なるイメージのおもしろさを越え、世界に内包された仕組み(隠された知)を露出する。カイヨワの「対角線の科学」がそうであったように「遊図」も必要があれば、時間を跨ぎ、概念が発生した時代や場所性、さらには観念をも折合わせる重層的な概念のミックスド・メディアである。
このような考え方を作品化したものが「遊図」である。それは、松岡正剛氏との交流のなかから、この概念に出逢い、長い時間をかけて形を成した作品で、わが国でも類例のない新種のコンセプチュアル・アートとして提示している。
そしてまた、私のライフワーク的作品に1970年代から国内の神社にお参りした際、「御魂石」を拝受しインスタレーション展示するという作品もある。この中心テーマは"祈り"であり、「御魂石」はその"祈り"を通じて見出されたオブジェ(目当て)である。一般的にはコンセプチュアル・アートは松澤宥の有名な「オブジェを消せ!!」というアフォリズムが意味するように、「オブジェ(目当て≒作品)を排し」て成立させるものであると言われているが、現実には具体的作品を制作する作家にとって、これは自己矛盾をきたすものであった。事実、晩年の松澤氏もこの問題で苦悩しておられた。そこで、コンセプチュアル・アートの「オブジェを排する」という枠組みをブレイクスルーする一つのモデルとして「御魂石」のインスタレーションの公開を試みたのである。
この視点と共通するものとして、高知県立歴史民族資料館が1995年に開催した「死と再生の文化」展のキュレーションがある。いかに人間の葬送がコンセプチュアル・アートに満ちているかを如実に感取させた展覧会であった。そこでは祭事美術から葬送様式を介して象徴学へと、そして民族学をも横越した、象徴美術のまさに遊学的展示がなされていた。
それは、西洋美術の根底で常に問題視される象徴学にも通底し、象徴学の碩学J.J.バハオーフェンの『古代墳墓象徴試論』を想起させる。これは、「遊図」にしても「御魂石」にしても"未来において必要とされる"コンセプトの提示と挑戦であり、「専門化を排して専門的」にあらんとする精神が描き出した「知図」としてのアートとは言えないだろうか?
また、ここでは群述は避けるが、写真誌『カメラ』(アルス刊)を通じて、岡山の写真家達が日本の写真界を揺るがした時代がある(これから検証が求められる事柄ではあるが)。その時代の重要な写真家に山崎治雄がいる。幸いにも私は山崎先生から写真を教えていただいた。かつて「写真が"写真術"」と呼ばれていたその時代の技法を、現在「フェノメナ」という若手写真家集団に伝える活動をしている一方で、私自身の写真作品をその実作例としてPhotographers' Gallery の企画展「能勢伊勢雄写真展<PORTOGRAPH>」で公開もした。また、同じ写真家としての視点から、人(写真家)が視る(撮影する)行為によって"國"を産み出すという"視ることの秘儀"を写真集『初國』で見事に開示して見せた高梨豊氏の写真展を、勝央美術文学館にて企画・監修し多くの人々に観ていただいた。
そして最近では、ゲーテ形態学と松岡正剛氏の相似律からインスパイアされた「MORPHOLOGY」の写真作品を発表している。形態に潜む"潜象"を写真で照応させるシリーズとして展開したものだ。2008年東京のギャラリー册にて「ルドルフ・シュタイナーと芸術」展にこのシリーズ作品を発表し、そして、同展関連シンポジウム「シュタイナー芸術を生きる」ではシュタイナーの基礎をなすゲーテ的認識を形態学とともに紹介した。その後、この流れはシュタイナー展の第2回展として、翌年実施された「五感のユートピアを求めて シェーカーからバウハウスへ、アスコーナ、そしてドルナッハ−環境と芸術のコロニー(共同体)の起源と現代−」展へと続き、人智学者エルンスト・マルティの言う「感覚界のなかの形態と物質のように、物質のなかに見えるプロセスと形成力は互いに深く結びついている」様を「MORPHOLOGY」シリーズとして提示するにいたっている。
他に、美術にまつわる講演・講義の代表的なものとしては1992年に水戸芸術現代美術館で開催された長谷川祐子氏キュレーションの「ANOTHER WORLD」展連動企画「超越思考講座・アナザーワールドへのプロローグ」での企画ならびに講師、1995年には水戸芸術館美術セミナー「現代美術のABC+D」での講師を務めた。また、展覧会企画を行った水戸芸術現代美術館「X-COLORグラフィティ in Japan」展(2005)の関連で、横浜トリエンナーレ「ストリートにおける表現の可能性」のパネラー、BankART Studio NYK「倉敷芸術科学大学ヨコハマゼミ」(2008)ではアーティスト・トークを、東京・美学校での「最終美術思考工房 −未来への軌跡−」(2006~現在)の講師...など、多数の講義・講演を続けている。
特に最近の提言としては岡山市デジタルミュージアム主催の講演会「市民による美術展実現のための方法論 −デジタル・ムネモシュネによるデジタル・ミュージアムの可能性について−」で未来の美術館の有りようと、アートマネジメントを考えるうえで最も大切だと思われることを話させていただいた(『photographers' gallery press no.5』(pg刊)に所収)。
この長ったらしい私の経歴解説を通じてお伝えしたいことは、「アートマネジメント」のマネジメントは各々の人生と宿命的に交差したマネジメントでなくてはならず、展覧会を企画する側にも作家的な視点があれば、展覧会やアートイベントがより深く、自己の人生と関わるものとして成立し、鑑賞者にもマネジメントする者の思いが深く伝わっていくことはまちがいないということだ。本当に「見せたい、知りたい、知らせたい」というベクトルが、自己の"人生"と必然的な関わりがあること。この関わりを持たないマネジメントがいかに空しいモノであるかについて、私は世界最高のキュレイターの一人であるハラルド・ゼーマンの姿勢をワタリウム美術館の和多利志津子氏から教えられた。
初めの話に戻るが、私の場合はアートマネジメントが自己の作品制作と結びつき、外見的に見れば展覧会企画者か? 作家なのか? 判断不能な状況に陥り、何時も"肩書き"では悩んでしまうのである。非常にややこしい状態ではあるが、反面「遊学」という概念を押さえれば非常にスッキリしたものであるのだが...。このように領域を跨ぎ、個別領域に関連を見出し、"世界をひたすら繋いでいく"バーバラ・M・スタフォード的な「遊学」的スタンスが現在のアートマネジメントに一番必要なモノだと考えている。
(2009年11月20日)
今後の予定
2010年1月15日
九州大学大学院リベラルアーツ講座
http://rche.kyushu-u.ac.jp/~in-kyotsu/H21/G2104.html
2010年6月6日~7月25日
能勢伊勢雄+植田信隆コラボレーション「渦と記憶」展
カスヤの森現代美術館にて
http://www.museum-haus-kasuya.com/index00.htm
関連リンク
おすすめ!
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- 『スペクタル能勢伊勢雄1968-2004』(和光出版刊)
- 『photographers' gallery press no.5』(photographers' gallery刊)
- 所収「岡山市デジタルミュージアムの可能性を探る“記憶のトータルリコール”」
【バーバラ・M・スタフォード著】
- 『アートフル・サイエンス』(産業図書刊)
- 『ヴィジュアル・アナロジー』(産業図書刊)
- 『グッド・ルッキング』(産業図書刊)
- 『ボディ・クリティシズム』(国書刊行会刊)
- 『実体への旅』(産業図書刊)
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第63回文化庁芸術祭参加撰定作品
CD book JINMO『ASCENTION SPECTACLE』(Live House PEPPERLAND刊)