夢への挑戦!
思えば5年前、何の保証も無いまま、10年あまりほとんど触ってなかったギターと少年時代の夢を引っ張り出し、37歳にしてプロのシンガー・ソングライターをめざしてライブ活動に踏み切った。その前年、患っていた鼻の病気を手術で治し、声が本来の声に戻ったことがきっかけではあったが、趣味ならともかく、その年齢とブランクで、最初からプロをめざすというのは客観的に見たら明らかに無謀だったと思う。ただ、自分でも押さえようのない想いに駆られたというのが正直なところだった。
誰もが、多かれ少なかれそうだと思うが、20代後半から自分の人生を深く見つめるようになった。人生の生き甲斐とは何か? 自分自身が本当に人生をかけてやらないといけないものがあるとすれば何なのか? 小さく凝り固まった人生は送りたくない。できれば社会的な貢献度が大きければ大きいほどよい。遠回りしながら自問自答を繰り返して来た。
サラリーマンも経験しながら、単に安定した収入を得ることだけでは本心が満足しないことを強く感じた。このまま自分の納得いく人生を探し出すことから目を背け、妥協の人生に入ってしまうのか...。その方が楽になれるという思いもたびたびよぎった。真摯に向き合えば向き合うほど苦しかったからだろう。「でもそれじゃだめだ!」という心の叫びと常に葛藤の日々だった。音楽活動を始める以前、思い切って脱サラして4年間独立してビジネスもやってみた。ビジネスで活路を見出そうと思ったからだが、正直自分が金儲けには向いてないことがよくわかった。しかし、この脱サラというハードルを越えた時の勇気が、その後音楽活動を踏み切る時にも大きな力になった。若ければ長期的な視野で仕事と音楽の両立もできるだろうが、年齢的に見て、本気でやるなら短期決戦、何よりも音楽を最優先する環境に自分を置いて活動しなければ年齢的ハンディは埋められないと思ったし、ダラダラもできないと思ったので、3年でメジャーデビューという目標を立てた。体裁や他人の目を気にしていたら踏み切れなかったが、周囲からどういう目で見られようと、自分の心の叫びにだけ従おうと思った。それは、自分だけにしかわからないこと...。
音楽の夢にチャレンジするために一歩を踏み出す勇気というか、精神的な壁を越える原動力になったのは、故郷佐渡ヶ島への想いだった。物心ついた頃から島内の他地域の子どもらとの交流が始まると、僻地といわれる貧しく辺鄙な地域で生まれたことに対する強いコンプレックスと常に向き合うようになった。自分が生まれ育った地域は、現在、完全に限界集落といわれる地域になっているが、「他人と同じ人生は絶対行かないぞ!」という強いハングリー精神は、そういう地域で生まれ育った幼少時のコンプレックスに知らず知らずのうちに起因しているのだと思う。
30歳を過ぎた頃から、自分の生まれ育った故郷へのコンプレックスが、徐々に強い故郷への愛郷の想いに変わっていくのを感じるようになった。親が存命のうちに、自分を育ててくれた故郷に何か恩返しをしたい。子どもの頃は、観光の島として賑わっていた故郷が、年々衰退していく様子を目の当たりにしながら、自分なりに何とかかつての賑わいを取り戻す一助になることができないかと強く思うようになった。そのために、自分の少年時代に抱いた音楽の夢が大きな力になるのではないか? 音楽が持つ力を最大限利用して故郷をアピールできるのではないか? そういう考えが紛れもなく原動力になった。そんな中で、同世代であり、同じように故郷への想いを抱いた「佐渡お笑い島計画」発起人、株式会社うぶすな社長吉井靖氏との出会いがあり、音楽活動をご支援いただいた。
人生かなり遠回りしたが、遠回りしたからこそ自分の本当にやりたい納得いく人生の術が音楽にあったということにも気づいた。誰もが自分の人生の方向性を決めるにあたって、大なり小なり出会いがつきものだと思うが、自分の音楽人生の原点は30年前に遡る。小6の時に、40人にも満たない小さな母校の小学校に新卒で赴任された恩師を通して出会ったギターだった。その時のギターとの出会い、感動が、今もなお音楽への夢を駆り立てていることになる。その恩師は、現在新潟県内で小学校の校長をされているが、音楽活動のおかげで、そのほかにも当時の担任だった恩師や他の教科を習った恩師、中学校時代の恩師とも30年ぶりの再会を果たせた。恩師の皆さんで連絡を取り合いながら、自分の音楽活動を力強く応援いただいていることを通しても、自分の幼少時代がいかに恩師に恵まれ、愛に溢れた教育環境にあったのかということに改めて気づかされ、感謝の想いが溢れる。
昨年10月1日、コロムビアミュージックエンタテインメントより、マキシシングル【月】でメジャーデビューを果たすことができた。何の保証も無いまま、3年でメジャーデビューという目標を立てて踏み切った音楽活動だったが、結果的に、メジャーデビューの話をいただいたのが3年半目の時だった。自分でもほぼ目標通りの結果に正直驚いた。第三者からは、現実離れしていると思える夢を語り、それにチャレンジするということは孤独からのスタートだった。でも、最終的には、その想いに共感し応援してくれる人が出てくるからこそ夢は実現できるのであり、一人では絶対不可能なことだと思う。
メジャーデビューといっても、華々しいプロモーションなどまったくできる立場ではないので、応援していただいているファンの皆さんに感謝しながら、聴き手の心に響く楽曲を作り、地道なライブ活動を中心に根強いファン層を広げていきたいと思っている。そして、急ぐ必要など無いと思っているが、メジャーデビュー後の次なる段階の結果を出して、応援していただいている方々に必ずや恩返ししたいと思っている。
(2009年2月17日)
次回執筆者
バトンタッチメッセージ
光平さんへ
お互い人生遠回りの末に選択した音楽人生。
光平さんのヒチリコにかける“夢”、ぜひ実現させてください!
お互い悔いのない結果を残しましょう!
また、コラボする時にはよろしくお願いしま〜す。