「アイヌ逓送人 吉良平治郎」のこと
釧路市でのトヨタ・アートマネジメント講座は、2000年3月、演劇セッション「地域演劇が未来をきりひらく--21世紀にむけた地域演劇の可能性を探る」でした。その切は大変お世話になりました。あれからもう7年になるんですね。今回はどもさん(ドラマシアターどもの安念氏をみんなはこう呼ぶ)からのリレーです。今、取り組んでいることを書きます。
八重清次郎エカシと知り合いになって
釧路市に住んでいる八重清次郎エカシ[*1]と知り合ったことは、私にとってアイヌ民族のことを知るのに大きなきっかけとなった。
明治、大正時代に多くの和人が北海道開拓に入植した、その中に八重清次郎エカシの父と母もいた。北海道の東の果ては土地が痩せていて思うような収穫は無く生活は苦しく、開拓の夢は破れ出身地である東北地方へ戻ったらしい。そのとき赤ん坊だったエカシはコタン[*2]のアイヌ民族に預けられたとのことだった。当時はよくあったらしいとのことである。その母はアイヌ語を話し、ウポポ(座り唄)をよく聞かせてくれたという。そのアイヌ民族の考え方と習慣を守り伝えることが自分の役割と、春採アイヌ古式舞踊釧路リムセ保存会(国指定重要無形文化財)の会長として、現在83歳になっても伝承活動を続けている。
アイヌの古式舞踊に「弓の舞」(ク・リムセ=一人の男が片手に弓を持ち、片手に花矢を持って座の中央に出て、鳥をねらい射る動作を踊りで表したもの。釧路地方特有の珍しい形の踊りである=同保存会30周年記念公演プログラムより)という踊りがあります。この踊りは鳥を射る狩猟の踊りとばかり思っていました。ある時、八重清次郎エカシより「あの踊りは弓で鳥を射る舞いではない。鳥を射ようとしたが鳥の飛ぶ姿があまりにも美しいので、その姿に感動して射るのを止め、鳥を崇めて弓を納める踊りなんだ」(地方によっては、鳥に当てずに弓を射る動作を入れるところもあるそうです)ということを聞かされた。
北海道ウタリ協会釧路支部長の秋辺得平氏からは、「アイヌは赤ん坊を神さまとしてコタンで育てるんだ。そして、3歳くらいになって自分の都合のいいようなウソを言い出したら、人間になったとして育てるんだ」という風な話しを聞いて、前述の八重エカシがコタンで育てられた話や、八重エカシと同じようにコタンで育てられた和人の子供が相当数、北海道にいたとのことを聞いて合点がいった。当時、開拓に敗れて内地に引き上げた中で、アイヌコタンもけっして余裕がある暮らしではなかったはずだと思っていたからだ。
舞台 「アイヌ逓送人 吉良平治郎」
フォト・ギャラリー ~ その1 ~
「アイヌ逓送人 吉良平治郎」のこと
吉良平治郎は1886年(明治19年)旧釧路村(現在の釧路市)桂恋に生まれ、極貧生活の末、35歳で郵便逓送の仕事を得た。逓送の仕事は昼間郵便局に集まった郵便物を夜間に本局まで届け、その帰りに本局の郵便物を運ぶ仕事である。
1922年(大正11年)1月20日。勤務を始めて3日目の夜、17キロの郵便物を旧釧路郵便局から16キロ先の旧昆布森郵便局まで、単独徒歩で逓送中2つの低気圧にはさまれた猛吹雪の中、歩行困難になり行く手を阻まれてしまう。その時、吉良は着ていたマントを脱いで郵便物を包み、雪の中に埋め、杖の竹棒の先に首の手ぬぐいを結びその場所に立て力尽きて凍死してしまう。この事故は、当時「時事新報」などを通じ全国に報道された。「~杖を立てて目標とし静かに瞑目し死出の旅路に就けるものの如く職務に忠実なる~」郵便物を守っての遭難死は「責任感の象徴」として、旧逓信省の映画製作や「武士もおよばぬ程のかくごなれ これが日本の大和たましひ」といった多く信書や義捐金が全国から寄せられ、さらに旧文部省が1930年(昭和5年)の修身の教科書に「責任」の題で収録された。「忠君愛国、滅私奉公の鑑たる殉職」として位置づけられた。
しかし、吉良平治郎がアイヌ民族だったことが触れられていなかった。
舞台 「アイヌ逓送人 吉良平治郎」
フォト・ギャラリー ~ その2 ~
2005年に釧路で「吉良平治郎研究会」が発足し、【1】資料集成の編纂とそれを元に、【2】多くの市民に知ってもらうための演劇公演を目標とした。
まず注目したのは、当時の釧路警察官巡査による「検視官報告書」である。そこには、郵便行嚢発見場所と死体発見場所が100メートル離れていたことが報告されている。さらに、郵便物はまったく無事であったことが書かれていた。
現在の北海道のアイヌ民族を代表するエカシの一人である、故山本多助エカシは、著作で「万一、平治郎が包んだ行嚢や目印の前で死体となって発見されたなら同族は彼を軽蔑するであろう。万物に勝る人命を僅かな物品と取り替えた馬鹿者であると」。アイヌ民族の思想は、いかなる場合でも人命を優先する。多助エカシは、平治郎のまたいとこにあたり、遭難当時17歳で捜索に加わっていた。
平治郎は15歳のとき、病気により左半身が麻痺し、歩けるようになるまで相当の苦労を重ねたが麻痺は残った。その体で太平洋岸の海岸段丘の上に吹きつける吹雪の中で郵便物を保護し、自分の命を守るため全身の気力を絞って、高台下の集落をめざして歩いたのだ。行く手を阻まれズック靴は破れ、その足に手ぬぐいを巻き、一歩一歩積もった雪を抜いては進む中で、平治郎は冷静に郵便物を処理し、次に自分の生命を守るために進んだ。人命を軽視しないアイヌ民族としての行動であった。同研究会で現地調査をし、海岸へ下りる昔の道を突き止めた。その横は急な深い沢のようになっており、地元の人からそこは吹雪とすぐ深い雪溜まりになるとのことだ。やはり平治郎はここにはまって、半身が不自由であったため、もがけばもがくだけ深みにはまったのだ。
多助エカシ「平治郎は頭を北に仁王様のように立っていた」と文書に残している。まさに死亡地点はここに違いない。集落はすぐ下に見える場所だった。
舞台 「アイヌ逓送人 吉良平治郎」
フォト・ギャラリー ~ その3 ~
明治時代に入ると北海道開拓使は、アイヌ民族に対して猛烈な同化政策の元、サケ漁やシカ猟を禁止、さらに言葉やまつりごとまで禁止した。強制的な政策により「滅び行く民族」とされつつあった。その中で、山本多助エカシは吉良平治郎の顕彰運動の先頭に立ち銅像建設を呼びかけた。この運動は昭和25年まで続けられるが、結局それは実現せず2体の木彫像を残した。いずれも「責任」と題された。民族の誇りとしての顕彰運動は実現しなかった。
この作品は2006年7月、市民参加劇として上演し、2007年1月に札幌市、2月に釧路市で再演され、さらに来年の再演をはじめ東京・札幌等での公演を企画中です。
今まであまりにもアイヌ民族に対して無知だった自分を省みて、自分の課題をさらに明らかにしなければならない。
この作品の脚本作りは自分も含めて4人で取り組んだ。その中の一人、秋辺デボさん(本名は日出男氏だがみんなはこう呼ぶ)に次のリレーを渡したいと思う。
舞台 「アイヌ逓送人 吉良平治郎」
フォト・ギャラリー ~ その4 ~
(2007年8月20日)
今後の予定
■10/27(土)
釧路演劇集団 第30回公演
「パパ・アイ・ラブ・ユー」
作:レイ・クーニー、訳:小田島雄志・恒志、演出:尾田浩
@釧路市民文化会館小ホール
※北海道バージョンに翻案して上演予定
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