表現と論理の間で
私はプログラムを書くことで生計を立てているが、職業欄にプログラマと書くことにはいささか抵抗がある。一口にプログラマと言ってもユーザーが触れる部分、触れない部分、ソフトウェア、ハードウェアなど範囲は広く、受け手にとってさまざまな受け取られ方をされかねないためだ。
プログラムを書くという作業は、ゲーム制作でもインタラクティブアートでもいいのだけれど、表現したいことを一つひとつの値の動きに分解し、プログラムのロジック(論理)として再考していくことだ。たとえば、物体Xが移動するということをプログラム的に再考するならば、物体Xのもつ座標に対してフレームごとに速度を加算する、といったところだろうか。
私はその表現と論理の境界が好きなんだと思う。曖昧なようで確実な、手品のタネを探すような作業はとても楽しい。そしてそのプログラムの実行において、自分は支配者として、すべてのルールを決めることが可能になる。その万能感も、プログラミングを表現のツールとして用いて得られる快楽の一つではないだろうか。もちろんすべてのルールを完璧に把握することは難しく、その過程でバグと呼ばれる論理的な破綻が生まれてしまうこともあるのだけれど。
私は現在、京都精華大学で非常勤講師としてゲームのプログラミングを教えている。学生たちは、ほとんど未経験の状態から、自身たちの企画をプログラミングに落とし込み、ゲーム作品としてリリースするまでの過程を学ぶ。表現を論理に変換する力を身につけていくのだ。それは、世界のルールを違う側面から見つけていくこと。これは、ほかのアート活動を行う際にも同じではないだろうか。
そもそも私がプログラミングを始めたきっかけは、学生時代につくりたかった映像にある。寄せては返す波のような、始まりも終わりもない、時間軸から解放された映像を夢見てきた。卒業後しばらく経ってから、Flash Math Creativityという本に出会い、コンピュータの演算結果による表現に心奪われた。ユーザーの入力によってインタラクティブな変化をつけることができるプログラミングによる表現はまさに「時間軸から解放された映像」だった。
この本は、プログラミングによって「表現する」というところに重きを置いた内容で、今でこそ、そのようなテーマで語られる本は珍しくないが、当時この本の赤い背表紙の存在感はとても魅力的に映った。光を通さないぶ厚い紙質だったり、真っ二つに開くとばらばらになる綴じの甘い製本が、どこか遠くへ連れて行ってくれるような気がしたものだ。理解できない難解なコードや今では使われなくなった書き方がたくさん載っていて、すぐ役に立つということはないのだけれど、たまに眺めると、当時のコードを眺めてわくわくした気持ちを思い出させてくれる。
プログラミングを用いた表現として、肉体的な感覚を想起させてくれるものは良い表現だと思っている。
たとえば、おもちゃを触っているような作品では、Vectorpark、最近見つけて感銘を受けたカジュアルゲームでは、Alto's Adventure、などがそれである。そのインタラクションから、昔触ったものの感触や、スキーやジェットコースターで坂道を勢いよく下るような体感などを想起させてくれる。
プログラマというと、なんとなくパソコンの前で1日中座ってキーボードを叩いているイメージがあるが(実際そのような側面もあるけれど)、物に触れ、物を動かし、動かされるときのような皮膚感覚を大切にできる表現を心がけていきたいと思っている。
(2015年3月24日)
今後の予定
「まかいピクニック」というスマートフォン用ゲームを作っています。見かけたら遊んでみてください!