間(ま)に思う
私はいつもこの窓からの風景を眺めながらピアノを弾いている。
職業は? と聞かれれば「ピアニストです」となるわけだが、内心、答えながらなんだか物足りないような、言い足りないような気分になる。
世にいう「職業」とは、おそらく多くの場合、何で生計をたてているか、つまり稼業のことを指すのだろうけれど、多くの場合「職業」が「稼業」と同義の意味合いで語られ、経済性のみで語られることもしばしばだが、どうもそのあたりに違和感をもってしまうようだ。
ピアノを弾くことが稼ぐ道具とはあまり思ったことはない。職種ではなく「あなたは何に興味があるか」「夢は何か」と聞かれたほうがずっとうれしい。そして、そういうときは互いの興味や夢を訊いてみたいと思えるなんらかの余裕というか隙間みたいなのが二人の間にあって、そのやりとりを共有して遊びたくなるような「間」がふわりと広がっていく。
そうやって一緒になって楽しめる「間」を、自分のなかに持ち続けていたいと、常々思う。
「働く」ことは人間だけがしているわけではない。すべての生き物がそれぞれのやり方で「働いて」いる。本能のままにエサや栄養分をとり、子孫を残し、なんらかの形で死ぬまでそれを続ける姿は、一見すれば、際限なく貪欲でとめどない消費行為である。でも、同時にそれは生態系全体のためのかけがえのない生産行為として大きな循環の一部分をしっかり担っている。
一方で、その循環をほぼ片時も止まることなく壊しているのが、現代の人類だ。消費が生産になる自然界と、生産が消費になる人間界。
だが、人間が生産性に効率性を求め始める前は、人間も自然界のひとつのサイクルを担っていたはずである。今でこそエコが叫ばれているが、江戸時代の日本人は特に叫ばなくとも最も洗練された循環社会のなかで生きていた。無農薬有機栽培、地産地消のキャンペーンをしなくとも、むしろ本来それしかなかったのだから、今の日常生活がいかに自然のサイクルから逸脱してきてしまったのかが、皮肉にもよくわかる。
大きな循環のなかにあるものが無条件で美しく感じられるのは、私だけではないだろう。ただ雲が風にまかせて行き、ただ水が低いほうへ流れる、そのかけがえのなさを行雲流水とたたえ、そのような生き様を日本人は敬ってきた。そこには、消費する/生産するという二元的な意図もなく、敢えていうなら消費と生産が同時に起き続けて永久に回転しているような状態がそこにはある。
私は、フランスの作曲家クロード・アシル・ドビュッシーの音楽が好きだ。何が好きかというと、とりわけドビュッシー独特の「間(ま)」である。「間」は音と音とのあいだにあって、一見時間の消費のようではある。だが、それは、次にどういう音が生み出されるかについての、あらゆるポテンシャルを秘めた、生産性の凝縮でもある。植物の種のようなものかもしれない。これからどんなものが生まれでるか、種自身もよく知らない、時空間もろとも殻の内部に折り畳まれた、微細な情報塊。時間を費やすなかで、それまでとはまったく異なる価値をもった時間を育む器が「間」である。そのミクロの営みは、音楽全体の流れを決める大きな原動力となる。
五線譜では、「間」の多くは、休符やスラーの区切れやカンマ、アクセントやスタッカートで表記される。「間」を意識して演奏するとき、ことにドビュッシー作品の演奏においては、音楽それ自体が稼働し始めるまで待つ、音楽が生まれでてくるまで辛抱づよく育むような感覚ゆえに、聴覚はことさらに鋭敏になる。
ピアノを教えるとき、よく「休符にアクセントをつけて!」と指導しているが、生徒さんたちは初めのうちはその不思議な比喩に戸惑いつつも、次第にその感覚がつかめてくるようだ。音楽がそれ自体で流れるようにしてあげてなどと言わずとも、音楽はだんだんと流れてきて、サーファーが波をとらえるように、音楽の大きな流れのなかで遊ぶ楽しみがわかってくるのである。
クラシックピアノで育った人が、ジャズピアノを弾くときに初めにぶつかり最後まで課題となる「ジャズのノリが出てこない」現象は、ひとえに「間」の性質の違いからくる。また、同じピアノなのに奏者によってこうも違うのかと驚くことがあるが、これも「間」の違いによるものだと思う。音粒の違いよりもむしろ「間」の違いが、音楽全体の性格に大きく作用するように思う。
大学時分、別の学科に油絵の先生がいた。この先生は、自分の手からいつ作品が離れるかという質問に対し「"泣き"が入ったら離れる」とおっしゃっていた。思うに、その作品自体が稼働し始めた瞬間の感動のことなのだろうか。ひとつの大きな循環のなかに息づく、かけがえのない生命を得た瞬間を目撃した最初の一人として。陸上選手なら、これをランナーズハイというのかもしれない。走ることそのものが稼働し始め、恍惚のなかで自己ベストを更新することが多いという。
絵を描く作業、走る作業を超えたところに、絵そのもの、走ることそのものが息づく世界がある。演奏でも同じだ。演奏をするという作業の当事者ではなく、観客のような感覚で観ているとき、演奏と自分自身には適切な「間」があって、自分が止まったら全部止まってしまうという雑念を超えたところにある、もっと大きな何かだけを頼りに演奏している。もっといえば、頼りにするのは自分から離れた何かでありながら、実はそれは自分自身のもつ「大きな流れ」を頼りにしているにほかならない。
人間も自然界の一角である以上、生活することそのものが稼働するサイクルのなかで生きているのが人間本来の姿だ。特殊な状況においてのみ、自然界の循環のなかで生きていたことを思い出す超能力が発揮されるのではなく、普段の営みのなかであまりにも忘れていた感覚がふと蘇るのである。生活のなかにある「間」にあまりにも大音量の不本意な音が入り込んでくるために、生活そのものが波打って循環するのを阻んでしまっている。時計を正確にし、効率性を上げれば上げるほど、生物として人間に備わっている「間」はその出番を失っていき、消費でも生産でもない自分自身とは異質な時間が、澱のように少しずつ積もっていく。
「どう生きるか」というテーマが今ほど重要な時代はないと思う。それだけ生存技術が向上して、生き方のデザインを選択する自由を獲得した人が増えてきたのだろう。1日のほとんどの時間を稼業に費やしてきた人のなかからも、自分自身の人生にはもっと「間」があってもいいのではないか、と考える機運が少しずつ、でも加速度的に高まっていると、肌で感じることが増えてきた。
どう生きるかを考える人への応援歌のように、昨今大流行した歌があった。「ありのままの 自分になるの」という解放宣言に感動した人は、世界中に数えきれないほどいるだろう。ほかからの押しつけではなく、自分の選択によって人生を構築していく自由への憧れ、あるいは確信。それによって開かれるまだ見ぬ故郷。
理想が瞬時に現実のものにはならないかもしれない。けれども、本来の自分の間合いと歩幅で歩き、そのためにはまずどういう「間」を持つかを心の内でしっかりと決めることが、次の旋律の方向性を決めることになる。
どんな旋律がどのように生まれでるかは、誰にもわからない。だが、間違いなく一番自分らしい旋律になることだけは確かだ。
(2015年2月23日)
今後の予定
3月22日 大正区でのライブ(大阪)
6月21日 ならムジークフェスト2015出演(奈良)
その他の予定については、関連リンクに随時アップします。
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