糸に会う
私は《目に見えるものと見えないものとの共存》をテーマに作品を発表しています。
作品展では油絵を主に出品していますが、表現方法は油絵に限らず、木版やゴム版や水彩なども使い制作をしています。
2012年より、LINK展というグループ展に参加し、京都市美術館で毎年展示をしています。
2013年の春、京都の西賀茂で築50年を超える木造の建物の一室をお借りして木版画の個展をしました。
なぜ目に見えるものと見えないものとの共存をテーマにして絵を書いているのかと言いますと、1枚の絵の中にはさまざまな要素があり、見えないものもおおいに絵の構成を手伝ってくれていると感じるからです。
フランスの画家のモネは自宅の庭でたくさんの睡蓮の絵を描きました。朝昼夕時と、陽の移ろい行くさまざまな姿を作品に残しました。私はその作品たちを見て思うことがありました。池と睡蓮と陽の移り変わり、それだけが絵の中にあるのではなく、その池の姿を通して世界のさまざまな事象が写し撮られているような気がしました。
ある事象を何年も追い続けると長い時を要するだけの秘密が見つかるときがあります。
その秘密はさまざまなものを説明してくれる語り部のようでもあるし、大きな世界を貫く一つの自分の宝でもあると私は考えます。他の人にとっては何の意味もないものでも、自分を生かしめる大きな力となるものなのです。
モネと話をしたことがないのであくまでも私の推測でしかないですが、1つの対象を見つめ続けるという行為はそんな要素があるように思っています。
人の心の中は目には見えないものなので、常にさまざまなものに心は揺れ動いたり引っ張られたり支配されたりします。その結果、軸がないとか目的がないとか、手応えのない心の世界に不安の色が広がったりします。
なぜ、目には見えないのに心のあり様に支配されるのか? と考えるとじつに不思議です。
心は一体どこにあるのか? そして心には何があるのか? と問われたら、はっきりと言える人は少ないと思うのです。見えないのだから。不確定ですぐに忘れてしまったり、意図的に思いを消そうとしたり、自分でも自分の心が解らないといったことにも成り得ます。
そんな計り知れない心というものとともに私たちは普通に生きているのだと思うと、人も昔から見えるもの(体)と見えないもの(心)との共同生活を、無意識の内にしてきているのだと感じずにはいられません。
その見えるものと見えないものの共存が生み出す出来事がたくさんあり、人はすべて自ら蒔いた種からできあがったものを自ら刈り取ることをしないといけないのだと思います。
刈り取りたいと思っていても、自分の手に怪我などがあるとそれすらもできません。そうなると自分の手を治すために心血を注がないといけなくなります。それが人の根本の何かをつくり出す動機となり、さまざまな活動となるのだと思います。
つまり、自分の心を自分で見つけたり、救うために人は行動を起こしているのかもしれない、と私は思うのです。
その行動のなかの1つが私にとって絵画制作であり、それを使って計り知れないものを追い続けていきたいという思いがあるために絵を描いているのだと思います。
絵という字は、〔糸〕と〔会〕というもので表されています。
さまざまな糸(意図)がさまざまなものに出会って絵に成るのだと考えると、たった1枚の絵も不思議とおもしろいものに思えてくるものです。
(2014年10月20日)
今後の予定
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2014年11月23日(日)
神戸・塩屋、旧グッゲンハイム邸にてクリスマス内覧会参加(ポストカード販売) - 2015年夏、LINK展13(京都市美術館にてグループ展参加)