音楽学の視点で試みるアートマネジメント
私は、音楽の歴史や構造、声や楽器などを研究する「音楽学」が専門で、研究の対象は日本の伝統音楽です。ですから、このリレーコラムにふさわしい内容なのか不安ですが、石綿祐子さんからのお声がけでもあり、書かせていただくことにしました。石綿さんのいつも冷静で大所高所から状況を把握し的確な指示を与えるマネジメントのお力を、ずっと尊敬してきました。昨年は「伝統芸能見本市 春迎え」で大変大変お世話になりました。
私自身が執筆活動だけでなく地域の伝統芸能や音楽の保存継承活動に携わったり、ホールでの伝統音楽公演の企画を体験してきたなかで、伝統音楽の舞台公演企画について音楽学分野からのアプローチも重要だと感じてきたこともあり、これまでの舞台公演の企画や実施体験の中で考えたことを書かせていただきます。
(1) 公共ホールの役割について思うこと~「青海音ものがたり」公演の企画~
20年以上前の事ですが、当時の勤務地で公共ホールの運営会議委員を数年引き受けました。地元の大学教員をしていたので、「地域の学識経験者」として委員になったのでしょう。当時どこにでもあったような年1回程度委員会がある「形だけの委員」で、そこで意見を述べたからといって実施内容に影響を与える事はありませんでした。
ある時、次年度の公演演目の審議で、資料一覧を見て私が気になったのは「買い公演」への膨大な予算でした。演目はたしかロシアバレエの《白鳥の湖》。それほど遠くない以前にも同じ会場で「白鳥の湖」の公演が行われていました。照明、音響、大道具からポスター制作、プログラム制作など全てセットで呼び寄せの会社に全面依頼するので、費用は膨大です。それにもかかわらず、数年前もそして今度も《白鳥の湖》。会議で私は「どうしていつも白鳥の湖なのか?」と質問しました。市役所の担当者の答えは「市民には《白鳥の湖》の評判が良いので」とのこと。思わず私は「白鳥の湖しか呼ばなければ、一般市民の方は他の選択肢を知らないわけですからそう答えるしかないでしょう。公共の施設だったら、もっと様々な演目を工夫して市民に提供するなり、地域の芸能にも着目して、地域が活性化するように考えることが大事ではないですか」と大胆な発言をし、市役所の担当者を困らせた記憶があります。
地域の公共ホールの企画内容は、2003年9月に施行された指定管理者制度でずいぶん改善されたように思いますが、日本の伝統音楽や地域の芸能の活性化については、まだまだ改善の余地があるように思っています。
1996年、新潟県の青海町で、新しいホール開館に向けての公演企画依頼を受けました。その地域の伝統芸能の活性化を目論んで、私は地域全体が関わる番組にしようと思い立ちました。私の勤務していた大学は、現職の小中高の先生方が修士の学位を取るために派遣される大学院大学ですので、現職の院生と協力して地域を活性化できたら、院生が現職に戻った時に方法論を提示できるのではないかという考えもありました。そこで、たまたま国語コース大学院生で詩作もプロ級の中学教員に、青海町が光るような詩をつくってもらい、友人の作曲家や演奏家の協力で、地域独自の音楽文化を取り入れた舞台作品をつくることにしました。構想は順調に練られ、舞台公演に出演する地域の芸能を決めようと役場の担当者と最初の打ち合わせに臨んだところ、役場の担当者は「この地域には伝統的な音楽などなんにもないです」というのです。そんなはずはないと、伝統芸能や民俗芸能とはどういうものかを具体的に説明すること数週間。その結果、この地には30団体を超える神楽団体あり、相撲甚句あり......と、豊かな芸能の全体像が現れました。
私の目的は、出演者も照明、音響、大道具担当も、プログラムや衣装も全て地域の方々で構成し、公演後も地域のホールでその土地の人々が舞台づくりのできる環境を整えることでした。そのためには、それぞれをサポートする専門家が必要です。そこで、プロの作曲家、照明家、音響家、衣装デザイナーに指導をお願いし、全体の制作を魁文舎の花光潤子氏にお願いして2年間の作業が進められました。
私を含めて県外のスタッフは10人程度、他はすべて地域の方々。そして舞台作品「青海 音ものがたり『石の聲◆記憶』」が完成。青海町のほとんどの方々が舞台にいるか客席にいるかという地域を挙げての公演となりました。合計3回公演の出演者はトリプルキャストで400人、公演には1500人の観客が集い、全部で2000人に近い町民参加の一大イベントとして大成功を収めた......と私は思っています。
地域の中にいると、自分たちの受け継いできたものの良さや大切さに対して時々無関心になってしまいます。そういう私も、山梨県出身でありながら、地元のことは知らずに外に出て、あとで素晴らしい伝統芸能があることに気づかされたのですが。
(2)「越後酒屋唄」の再興
上越には「旅の人」という言葉があります。平たく言えば「よそ者」と言う意味です。でも、「旅の人」だから見つけることのできた伝統文化もあります。私のライフワークである「越後酒屋唄の保存継承」の活動です。
ゼミの学生が卒論に選んだテーマは「酒造り唄」。当時、私も本物の酒屋唄を聞いたことがなかったので、長岡市の朝日酒造の協力を得て本物を聞かせていただきました。初めは畳の部屋でご年配の3人の元杜氏さんが座って歌ったのですが、その中のお一人が立ち上がって動きながら歌い出しました。この時の唄の大きな変化が、現在まで私が酒造り唄にのめり込むきっかけとなりました。当時の朝日酒造部長、松井進一氏の紹介で、「久保田」を世に出した元醸造試験場長の嶋悌司氏にお目にかかり、消えそうになっている酒屋唄の記録を依頼されました。お二人には現在にいたるまで、私の研究活動を支えていただいています。でも、もったいないことに私は下戸なのです(笑)
酒屋唄の伝承方法として私が考えたのは、舞台公演で酒造りを再現することで唄を残す方法でした。立って歌う時と実際に仕事をしながら歌うのでは唄が大きく違うからです。何が違うのかというと、唄のテンポ、強拍の位置、フレーズの区切り、リズムの伸縮などなど。桶洗唄のように長く歌いあげる時は、手に持ったササラを上から下に擦り下ろす長さで唄のフレーズが決まります。良い声で旋律的に歌うことが目的ではなく、仕事がはかどるように歌うことが重要なのです。ひとりひとりの声は異なっていて当たり前。記録作業開始の頃は、自分たちの唄は声が揃っていないとか、楽譜がないとか、民謡より劣ると考えている蔵人が多くいましたが、人に聞かせる唄が目的なのではなく、各自の声が違って当たり前だ、などと話しているうちに、蔵人たちの顔が輝いてきました。動きを伴った唄はますます魅力を増し、歌う蔵人たちは蔵にいる時のように活き活きと歌うようになったのです。
酒屋唄を歌うならば、ただ歌うのではなく道具をもって、当時の蔵での歌い方で歌ってもらう。そしてそれを舞台で披露する。この方法を、蔵人の方々に毎回お願いしたことで、それまでマイクで歌っていた酒屋唄は労働歌となり説得力のある唄となりました。実は、この唄は人に聞かせるための唄ではなく、蔵人が生きるための唄でもあったので、蔵人の家族も聞いたことがありませんでした。眠気を払う、家族と離れた寂しさを紛らわせる、足の動きを合わせて米を磨ぐ、撹拌時間や水量を測る、仕事の精度をあげる、そして、辛い出稼ぎの気持ちを仲間と共有するなど、歌う目的は様々です。この唄の本来の役割、音楽としての特徴、身体性との深い関わりを分析して、唄の本質を損なわない形で復元することこそ、唄のエネルギーを保持し、聴くものに説得力のある唄として届けられるのだということを、この活動で学ぶことが出来ました。
私は、こうしたいと思うと、自分が描いているような状況で実現するためにあちこちを説得に行くので、説得に来られた役場や蔵、そして蔵人の方々は、きっと困惑されたことでしょう。でも、新潟の方々は穏やかな方が多いので断れなかったようです。上越時代に学科の事務局の方に優しく言われたことがあります。新潟の人は、何かを頼んですぐに返事をもらえないときはそれ以上言わないのですが、茂手木先生はまた頼むので断れないのでしょうね......と。山梨県人のせいかもしれませんが、返事がどうなのかをやはり聞きたいので何度もお願いに上がったからでした。
写真は、寺泊在住の野積杜氏たちの酒屋唄再現風景です。VTR作成のための蔵での酒屋唄、そして新津市美術館での酒屋唄公演の様子です。当時美術館館長だった東京大学名誉教授の横山正先生にお会いできたお陰で、酒屋唄の再現活動にとって大きな一歩を踏み出すことができました。この時、越後の酒屋唄の実際が映像記録され、またCDも出されて越後の酒屋唄公演は、新潟県にとどまらず都内や浜松、そして、ドイツのケルンやバンベルクでも実現することができました。現在、私は、20年間の記録をもとに、酒屋唄について書籍でまとめなくてはいけないと考えています。
(3)「北斎の音楽(おと)を聴く」シリーズ公演
ここ5年ほど、墨田区文化振興財団の依頼を受けて、「北斎の音楽を聴く」と題する公演を実施してきました。1980年代から葛飾北斎が描いた音楽場面や楽器、音を出す道具類に興味をもって研究していますが、北斎の作品には本当にたくさんの音楽情報が描かれています。私自身、生活の中の音文化に最も興味を持っているので、北斎の描いた音の場面は私の興味そのものなのです。これを再現したらおもしろいだろうなあと言うアイディアについて、北斎研究の第一人者で「すみだ北斎美術館」の設立に関わる永田生慈氏が舞台で実現する機会をくださいました。第1回目から回を追うごとに、あれもやりたいこれもやりたいという気持ちが強くなり、第5回目「続北斎の音楽を聴くⅡ」では、東海道五十三次の「京」の場面にある「胡蝶」と、北斎漫画の「百萬遍」を再現することになりました。「百萬遍」については、偶然にも上越の骨董店で百萬遍の数珠を手に入れて持っていたので、これを是非舞台に使えたら......と。公演日9月23日は北斎の誕生日でしたがお彼岸の中日。お坊さんは超多忙です。さあ企画が本当に実現できるかどうか悩みました。
幸運なことに名古屋在住の浄土宗僧侶で、百萬遍を京都の知恩寺で勤められた橋本知之氏の協力を得られることになったのです。百萬遍念佛は一般庶民も唱えてきたので、念仏講中はお坊さんでなくても大丈夫。でも、舞台公演となるとそれなりの出演者が必要になります。俳優で演出も手がける阿部義嗣氏が台本と演出を引き受けてくださることに。私はいつも誰かに助けられて希望を実現できることに感謝でした。
念仏講を俳優で構成し、まずは百萬遍の勉強会。そして、半月にわたる芝居の稽古が行われました。俳優たちは歌舞伎のDVDをみたり、北斎の情報を集めたりして舞台に臨みました。これまでの北斎シリーズにはない「創作」ですので、伝統芸能に詳しいお客さんの反応がとても心配でした。また、公的な舞台で浄土宗の行事を行うので、様々な宗教の聴衆にも対応できるように、北斎時代の歌舞伎や事象に基づいた内容で構成することなど準備も必要でした。さらに、藤舎呂英氏らによる陰囃子も演技の助けとなりました。普段はミュージカル等に出演する俳優たちに日本の伝統音楽に触れる機会をつくれたことも、私の内緒の目的でした。俳優たちはさすがプロ、本当に頑張って舞台をつくり上げてくれたのでした。
(4)「伝統芸能見本市~春迎え~」
私の企画の特徴は、まず、日本文化の中で受け継がれてきた「響き」や「音色」を第一に考えて公演を企画すること。そして、演目構成にははっきりした主張を込め、表面には見えなくても初めから終わりまでこの主張を通す努力をすることでしょうか。時々この一貫性を強く求めすぎて、公演までのプロセスに多くの困難を生み出してしまうこともあります。アーツカウンシル東京から依頼を受けた「春迎え」がその一つでした。すべての演目は「春迎え」のキーワードで整えられなくてはなりません。しかし、私の不勉強もあり、歌舞伎舞踊で立方一人で「春迎え」のキーワードにふさわしい演目は非常に少なく、困難を極めました。当初「鷺娘」を計画していましたが、会場設備では雪を降らせられないことが判明。では現代美術的な背景でと考えましたが、交渉した歌舞伎専門の会社ではあくまでも雪を降らせることが条件で、やむなく諦めました。紆余曲折ののち、美しい日本舞踊家、花柳美輝風氏を立方とし、藤舎呂英氏の声掛けで集まった実力ある長唄と囃子の若いメンバーによる演奏で素晴らしい舞台となりました。
この会場はコンサートホールだったため、日本の楽器の音響環境としてもかなり困難な状況でした。邦楽器には残響が長すぎるのです。そうかと言って、マイクで拡声しては音色が変容します。演奏者とも話し合いながら、当日はすべて生音で公演する決断をしました。ここでの生音の決断はかなり大胆だったようですが、結果として生音も素晴らしい響きとなりました。ただし、音バランスは必ずしも理想的にはいきませんでしたが。
当日は、ロビーと舞台での合計9種類の異なる伝統芸能。舞台では歌舞伎舞踊、文楽、舞楽、大田楽と、大演目ばかり。音響の処置、舞台転換の工夫、「春迎え」のテーマで通すための全体構成など、課題は山積していました。結果として大成功を収めたのは、アーツカウンシル東京の石綿祐子氏と玉虫美香子氏の辛抱強いサポート、そして、舞台美術の碇山喬康氏と照明の高木どうみょう氏、歌舞伎座舞台さんのプロ技のおかげだと思っています。
「北斎...」も「春迎え」も、伝統芸能写真撮影の第一人者である青木信二氏のご協力で、素晴らしい写真記録を残していただきました。
私の体験として、公演が成功するために大事なことは、出演者やスタッフとの密なコミュニケーションです。舞台公演の企画では、私が希望する曲目を演奏家に提案し、協議しながら演奏曲目を決めさせていただきます。公演のコンセプトを守るために、時には、演奏家の提案する曲目を変更していただくこともあります。ですから、演奏家の方たちも受け身ではなく、ご自身の主張をもって企画に臨んでくださるので、公演までのプロセスでは様々な議論が出ますので、一緒に舞台をつくってゆくことができるのです。
私は音楽学研究の立場でありながら、様々な舞台公演にかかわらせていただいています。でも、そこには、制作スタッフの方々、主催者の方々の大きなサポートがあるから無事に公演できているのです。またその反対に、日本音楽研究者だからこそできる復元活動や舞台公演があります。現代という背景の中で、妥協することなくきちんとした伝統の姿を見せること、聴かせること、このことが、舞台の密度を高め、説得力を強めることができると考えると、音楽学であってもアートマネジメントの仕事における役割があるのかなあと考えるこの頃です。
(2013年10月28日)
今後の予定
■12月8日(日)
「古典の会~箏曲山田流のうた~」
企画協力と舞台解説 西潟昭子氏との協同企画 洗足学園 音楽大学シルバーマウンテンB1 14時開演
■2014年3月
「E.S.モースコレクションにおける日本音楽資料の悉皆調査報告[その4]」
有明教育芸術短期大学紀要 第5号に掲載予定
関連リンク
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●写真集のご紹介
私が尊敬する素晴らしい写真家、竹内敏信氏の写真集『富士山』が、世界文化遺産登録記念として出版されました。竹内氏は、拙著「おもちゃが奏でる日本の音」のすべての伝統音具の写真を撮って下さった写真家です。この富士山の様々な姿が本当に素晴らしいです。山梨県人の私としてはぜひご覧になっていただきたい作品集です。11月23
日まで、品川駅近くのキャノンギャラリーSで、「時代に応えた写真家たち」と題して、竹内氏の写真展を開催しています。春夏秋冬のダイナミック、かつ繊細な自然の姿が、ギャラリーいっぱいにあふれています。
●新潟銘酒のご紹介
冬に向けて日本酒の季節になりますね。お酒の飲めない私が言うのもなんですが、越後の酒屋唄の名人が生み出したお酒をご紹介しましょう。酒屋唄の上手な方は、全国の品評会での金賞受賞も多く、お酒の味はその人柄を表す芸術作品となっています。
千代の光:知る人ぞ知る妙高市の銘柄です。頸城在住の美声杜氏、峯村栄一杜氏が手がけました。
壺中天地:越路町の酒屋唄名人、平澤清一杜氏の銘酒です。「久保田」の杜氏もうならせた美声と美味です。
和楽互尊:寺泊の杜氏で民謡の名手だった加藤金司さんのお酒です。左の酒屋唄写真の右の方で、気風のよい豪快な方でした。
越の白雁:やはり唄名人、佐藤源司杜氏が手がけたお酒です。バンベルク公演もご一緒でした。
想天坊:酒屋唄の構成や理論にも詳しい歌い手で、酒屋唄のリーダー的存在、郷良夫杜氏が手にかけたお酒です。やはりバンベルク公演にご一緒しました。
ご紹介したのはほんの一部で、まだまだあります。
すでに引退されたり他界された杜氏さんが多いのですが、昭和30年代から彼らが創りだしたお酒の味は、今もしっかりと受け継がれています。厳寒の1月から3月にかけては、生原酒の季節です。「久保田」の生原酒、「千代の光」の生原酒などなど、ぜひ一度味わってみて下さい! 飲めない方も、かならずこの美味しさがわかります。