人と町の両方に寄り添い、支える。義肢装具メーカー中村ブレイスの古民家再生事業
アートの現場レポート! 企業編
企業の中にもたくさんのアートの現場が存在します。ここでは企業が行うメセナ活動(芸術文化振興による豊かな社会創造)の現場へ足を運び、担当者の方へお話をうかがう取材レポートをご紹介します。アートを通して企業のさまざまな顔が見えてくると同時に、社会におけるアートの可能性を見出します。第4回は義肢装具メーカーの中村ブレイス株式会社。島根県は石見銀山のある人口400人の小さな町にある企業が、古民家再生事業を通して実現していく地域再生の現場を、メセナライターの瀬戸義章さんが取材しました。
時を超える街並み。大森町の朝
島根県大田市大森町の中心を通る、石見銀山街道。両脇には伝統的な民家が建ち並ぶ。赤茶色の瓦屋根に、木造の縁側。
山々に朝靄が立ちこめる中、ここを歩けば、どこからか焼きたてのパンの匂いが漂ってくる。横目にカフェ、雑貨屋、オペラハウス、ライブラリー、レストラン。賑やかな保育園の声。コカコーラの自販機が、まるで江戸時代の箪笥のような、装飾つきの木枠で覆われている。すれ違う人と、「おはようございます」と挨拶を交わす。
大正ロマンの映画に出てきそうなこのまちで、いま通り過ぎた古民家の多くは、"義肢装具メーカー"の中村ブレイス株式会社が再生した家屋である。
「夢の時代」の歴史を胸に
中村ブレイスは、身体の一部を補うための義手・義足や、治療や症状の軽減を目的としたインソールやコルセットなどを製造し、国内外に販売している企業だ。
大森町の人口は400人。JRに接続する路線バスは1時間に1本である。なぜ、あえてこの町で、義肢装具の会社を立ち上げたのか。創業者の中村俊郎氏は、「何もなくなってしまったからこそ」と、51年前を振り返る。
「義肢装具の仕事は姉の勧めで始めたのですが、次第に最新技術を学びたいという思いが募り、単身で渡米しました。ところが、交通事故で大怪我をして帰国せざるを得なかったのです。故郷はすっかり寂れて、ゴーストタウンと化していました。でも、そこに命を拾った自分が戻ってきた。これは"ドラマ"の始まりなんだと思いました。自分も町も『復活させたい』という思いが、ふつふつと沸いてきたのです」
俊郎氏は、明治生まれの父から、石見銀山の町、大森町の「夢の時代」をよく聞かされていた。
石見銀山の歴史は古く、16世紀には国内有数の銀山として尼子晴久や毛利元就、豊臣秀吉といった大名が争奪戦を繰り広げている。江戸時代になると徳川幕府の直轄地となり、海外交易で銀が盛んに輸出された。当時の日本の銀産出量は世界の三分の一を占めており、ポルトガル製の日本地図には「Hivami(石見)」の名が大きく記されている。世界に冠たる都市だったのだ。
銀は江戸時代末期にほとんど枯渇してしまうが、鉱山としての経営は大正時代まで続き、大森町には県庁が置かれたこともある。そうした繁栄の残り香と、世界に通じていたという国際感覚を、俊郎氏は伝え聞いていた。
実家の納屋を改修して義肢装具の工房にするところから、事業が始まる。起業後の1カ月間は、親戚からの注文が一件だけ。生きていけるかどうかさえわからない状況だ。とにかく、無我夢中で働いた。
転機となったのは、創業から10年目、シリコーン製インソール(靴の中敷き)を開発したこと。コルクや革製が主流だった当時に、耐久性に優れ、適度な弾力があり、衛生的で匂いのつかないシリコーンインソールは画期的な製品だった。日本を始め、ドイツやアメリカ、イギリスなど9カ国で国際特許を取得することができた。石見銀山の町から、再び世界に通じる製品が誕生したのだ。
義肢装具の先駆者として。地域復興の担い手として。
オーダーメイド製品でなく、委託販売できるシリコーンインソールは売上を大きく伸ばし、事業を軌道に乗せた。シリコーンという新素材を活用した新たな製品も次々と生まれた。
ここで俊郎氏が始めたのが、大森町の古民家再生事業である。採算は度外視。「それくらいしなきゃいけない」と当然のようにいう。自社の社屋を除くと1988年から、毎年数件のペースで古民家を改築していった、社宅に、店舗に、食堂に、音楽ホールに。
「この家を譲りたいんだけれど」と持ち主から相談を受け、会社として譲り受ける。そのうち、人づてに入居者が現れる。 ドイツパンとお菓子のお店"Bäckerei Konditorei Hidaka"や、中華料理店"道楽"など、わざわざ県外からお客がやってくるような人気店も、中村ブレイスが再生した古民家での営業だ。再生した古民家の数は、2024年2月時点で64軒にも上る。
石見銀山で受け継がれる新たな想い
現在、古民家再生事業を担当する、専務であり、俊郎氏の次男である中村哲郎氏に、「石見銀山まちを楽しくするライブラリー」を案内してもらった。
ここは、旧朝鮮銀行総裁・松原純一氏の生家を中村ブレイスが譲り受け、改修し、島根県立大学とアイデアを出し合って再生した、サテライトキャンパスだ。ライブラリーやカフェ、コワーキングスペース、ミーティングスペースが用意され、「本」をきっかけに、学生や地域住民、観光客が交流できる場だ。地域政策を学ぶ学生に、「本当に」まちづくりにたずさわることができる施設として託されている。
こうした古民家の改修には、公的な補助金を使っていないと哲郎氏はいう。
「中村ブレイスとしては、身の丈に合った範囲で、少しずつ再生を続けています。小さな企業ですから。それでも最近では、ありがたいことに大森町への移住者が増えてきて、『家族で住みたい』という要望をもらうようになりました。ちょうどいま、その改修をしているところです」
義肢装具士の国家資格を取得した就職希望者が全国から集まるようになり、今では従業員のうち、10世帯35名は古民家を再生した社宅や社員寮に住んでいる。大森町の人口の約1割だ。一時期は幼稚園の園児が1名にまで減り、存続が危ぶまれていたが、現在は25名にまで増えている。
「実は、『なんでこんなことするんだろう』と思っていたこともありました」と、俊郎氏の長男であり、中村ブレイスの現社長、中村宣郎氏は微笑みながら続ける。
「でも、古民家を再生するたび、町に少しずつ人が増えるんです。毎朝、会社まで通う道の両隣が、パン屋になったりカフェになったり、どんどん賑やかになっていって、すれ違う顔がにこやかになる。子どもたちの声って、本当にまちを明るくしてくれるんです。『まちを復活させる』だなんて、きっと普通の企業では、こんな感覚は味わえないでしょう」
中村ブレイスでは、1991年から、欠損した乳房や耳介・指などの部位を再現するメディカルアート製品の製造販売も始めている。つらい喪失感をすこしでも和らげようと、製品は一つずつ、その人の肌の色に合うように、細やかな気配りのもと、職人が彩色している。人と町、どちらにもやさしく手を差し伸べるその思いは、きっと共通している。
"brace"は他動詞で「支える」、自動詞で「元気を出す」という意味を持つ。語源は「腕」「二つ以上の物をしっかりとつなぐもの」。中村俊郎氏が会社に込めたその想いを、また、次代が受け継ぎ、時間をかけて育てていく。新たな夢を叶えていくために。
取材を終えて
石見銀山の町での古民家再生事業を、「道楽」だと笑う中村俊郎氏。今まさに世に打って出ているスタートアップの経営者も、これくらい痛快な道楽家であって欲しい。
中村ブレイス株式会社
取材日:2024年2月8日(木)
取材先:中村ブレイス株式会社(島根県大田市大森町ハ132)、石見銀山大森銀山地区
メセナライター:瀬戸義章(せと・よしあき)
作家・ライター、BHNテレコム支援協議会 新規事業担当。1983年生まれ。神奈川県川崎市出⾝。⻑崎⼤学環境科学部卒。物流会社でマーケターとして勤務後、フリーに。著書に『雑草ラジオ――狭くて自由なメディアで地域を変える、アマチュアたちの物語』(英治出版)『「ゴミ」を知れば経済がわかる』(PHP研究所)、共著に『ルポ ⼀緒に⽣きてく地域をつくる。』(影書房)。