第2回「いま〜第一線で活躍する中堅世代」
ファシリテーター:熊倉純子
ネットTAMの開設20周年を記念して、今日の日本におけるアートマネジメントを捉え、中堅・若手世代に向けた展望を描く大座談会を東京藝術大学キュレーション教育研究センターご協力のもと、上野キャンパス内で開催しました。
トヨタ・アートマネジメント(以下、TAM)はトヨタ自動車株式会社の社会貢献活動の芸術文化における取り組みとして1996年よりスタート。アートを通して地域社会を活性化する「地域のアートマネージャー」を各地で育成し、行政・文化機関・地域などで地元密着型のアートマネジメントが盛んになることを目的に、「トヨタ・アートマネジメント講座」(以下TAM講座)を開始し、2004年までに全国32地域にて53回開催し、延べ1万人の方に参加いただきました。その後、インターネット上に場を移し、「ネットTAM」が2004年10月に始動。今日に至るまで、変わらずアートマネジメントの人材育成を核にアートマネジメントに関する情報提供とネットワークづくりに向けた支援に精力的に取り組んでまいりました。
トヨタ・アートマネジメントが始まってから28年を経た現在、アートマネジメントを巡る状況はどのように変化したのか、また今後どのようなアートマネジメントが求められるのか。TAM講座を立ち上げたオリジナルTAM世代のメンバーから、平成生まれの若手まで、3世代のセッションに分かれて「アートマネジメントのはじまり・いま・これから」を大いに語り合う場「大座談会」を企画しました。ファシリテーターには、事務局そしてディレクターとして当時TAMの運営を担い、現在は東京藝術大学大学院の国際芸術創造研究科教授の熊倉純子さんをお招きし、「第1回:はじまり~オリジナルTAM世代」「第2回:いま~第一線で活躍する中堅世代」「第3回:これから~未来を切り拓く若手世代」と、3つの座談会を通してアートマネジメント現在地を考察し、未来に向けたエールを送ります。
第2回に登壇するのは、アートマネージャーのコレクティブである一般社団法人ベンチの代表理事を務める武田知也さん、アートを専門に通訳や翻訳を手掛けるArt Translators Collectiveを主宰する田村かのこさん、足立区千住で10年以上続くアートプロジェクト「アートアクセスあだち 音まち千住の縁」でディレクターを担当しているNPO法人音まち計画の吉田武司さんの3名です。「アートマネジメント」という言葉が浸透し始めた時期に学生時代を過ごし、自身で独自のキャリアを築いてきた皆さん。第一線で活躍する現在に至るまでの道のりや、アートマネジメントを巡る状況の変化について語り合いました。
集まって話したり休んだりできる、アートマネージャーのためのベンチ
座談会では、ファシリテーターの熊倉純子さんのガイドのもと、まず3名のこれまでのキャリアについて紹介されます。学生時代に演劇活動を行っていたという武田さんは、3年生になり周囲が就職活動などをする中で、演劇を続けられなくなってしまう状況に疑問を感じたそうです。そのような中、アートマネジメントというものの存在を知り、インターン先に選んだのが、廃校を活用したアート施設の先進的な事例として知られる「にしすがも創造舎」。第1回の座談会にも登場する、オリジナルTAM世代の市村作知雄さんが代表を務めていたNPO法人アートネットワーク・ジャパンが運営にかかわる施設でした。
武田:にしすがも創造舎で蛍光灯を交換しているときに、市村さんに卒業後の進路を尋ねられ、「何も決まっていません」と答えたら「それなら、うちに来い」、と。そんな偶然のご縁があって、新卒でアートネットワーク・ジャパンに入職したのが現在の仕事につながるきっかけです。
その後、アートネットワーク・ジャパンでは「フェスティバル/トーキョー」の立ち上げなどにもかかわり、2014年からは京都市の劇場「ロームシアター京都」の開設準備室に移ります。2018年からはフリーランスになり、アートプロデューサー・コーディネーター・マネージャーのコレクティブの必要性を感じ、ベンチを設立したのが2021年5月でした。
武田:ベンチのメンバーは現在7人です。フリーランスだったり別の団体に所属している人もいる、ゆるやかなつながりを重視した組織。団体名は、私が好きな野球用語から考えてみたら?とメンバーがいってくれて、そこから発想して決めました(笑) ベンチというと、補欠のようなネガティブな印象もありますが、バックアップの場所でもあり、作戦が練られ、指示を出す首脳陣の場所でもあります。そんなイメージがよいかなと。あとは、ベンチそのものも好きで、たとえば商店街でもどこでも、ベンチが一つあれば人が集まってきて話したり休んだりできますよね。アートマネージャーのベンチになればと考えて名づけました。
フリーランスでありながらも、安心して働けるワークギルド
アート・トランスレーターという肩書きで、アートに関する現場で通訳や翻訳に携わる田村さんは、「アートマネージャー」と名乗っているわけではありませんが、間に入る「媒介者」としての役割という点で共通していると話します。アメリカの大学を卒業後、東京藝術大学の先端芸術表現科に再入学します。
田村:現代アートの虜になって自分でも色々としていたんですが、アーティストとして作品をつくるよりも人と人との間に入ってつなぐことだったり、俯瞰して物事を見て整理したりすることの方が好きだし、得意だなと思いました。藝大を卒業した2013年に、武田さんもいたフェスティバル/トーキョーの事務局にアルバイトで入っているので、武田さんは先輩という感じです(笑)。
その後も舞台芸術や現代アートの現場で仕事を続けるうちに、通訳と翻訳を軸に活動していくことを決心します。田村さんと同じようにアート分野を専門に通訳・翻訳を行う同世代の人々と数人で集まった際、同じような問題意識を皆が抱えていることがわかったことから、Art Translators Collectiveを立ち上げたと話します。
田村:「孤独な戦いだよね!」と意気投合しました。自身もアーティストや演出家として活動を続けながら通訳・翻訳を請け負っている人もいるなかで、忙しくて1度お仕事を断ってしまうともう依頼をいただけないかもしれないとか、病気になっても代わる人がいないなど、心配が多いです。フリーランスでありながらもワークギルドのようなものがあれば安心して働けますよね。
「島、行かない?」の一言で、役場の職員としてアートプロジェクトを担当
3名のなかでは唯一、NPO法人に所属している吉田さんは、これまでにも埼玉県北本市の「北本ビタミン」や東京都三宅島の「三宅島大学」など、地域のアートプロジェクトに数多くかかわってきました。なかでも三宅島では役場の職員としてアートプロジェクトを担当するという異色の経歴。そのきっかけは、第1回の座談会に登壇している森司さんの一言だったといいます。
吉田:現場でお会いした森さんから「島、行かない?」っていきなりいわれました(笑)。魅力的な響きだなと思いながら「どういう立場で行くんですか?」と聞いたら「役場の職員としてアートプロジェクトにかかわってほしい」、と。なかなか今後ない機会だと思いましたし、行政側からプロジェクトを回すことにどういう難しさがあるのかなども興味深く感じて引き受けました。そのときの森さんの捨て台詞が「たたみに行ってね」でした。
元々は学生時代を過ごした京都で、博物館やギャラリーに所属して働いていた吉田さんですが、フットワークの軽さは当時からだったようです。展覧会を手伝った現代アートチームの「目[mé]」の前身である「wah document(ワウドキュメント)」に誘われるかたちで京都から上京し、「越後妻有アートトリエンナーレ」などの芸術祭を担当。三宅島のプロジェクトを「たたんだ」後には、森さんも所属するアーツカウンシル東京(2013年時は東京文化発信プロジェクト室)で「東京アートポイント計画」のプログラムオフィサーを務めたのち、現在のNPO法人音まち計画への転職となりますが、最初は断ったそうです。
吉田:色々な人から転職を打診されましたが、3回断りました。最後に森さんが出てきて、これは断れないな、と(笑)。断った理由には、やはり給与などの条件の問題がありました。次のステップアップを考えていたところ、1年で転職となりました。やるからには腹をくくろうと、バックオフィスを専門的に担当してもらう人も誘い、今まで続けてこられました。アーツカウンシルで働く中で、NPOとして継続的に組織運営するには、総務や会計といったバックオフィスこそ専門的な人材が必要だと感じたからです。
東京アートポイント計画では「(キャリアのなかで)初めてボーナスが出たんですよ(笑)」と冗談めかして場を和ませる吉田さんですが、給与などの待遇については、まだまだ大きな課題があると多くの人が感じているところでしょう。武田さんも「組織にいたころから、アートマネージャー、特にフリーランスの立場が不安定である」ことを感じていたことが、コレクティブを設立するきっかけだったと話します。
コレクティブだからこそ可視化できた「専門性」
武田:たとえば待遇や給与にしても、20代のころは、他業種と比べてもそれほどの違いはないのですが、30代・40代になって違いがはっきりしてきます。一方で背負う責任は年齢とともにどんどん大きくなって、世界的なプロジェクトを担当するようになったりする。そのギャップで舞台芸術の仕事をやめてしまう、あるいは最悪の場合、命が失われるということもありました。そういう状況を何とかしたいという問題意識を仲間内でも話していました。
業界のあり方を変えたいという強い想いとともに、「単純に自分がしんどかった」とも話す武田さん。コレクティブというかたちには、互いに支え合うだけではない対外的なメリットもあった、と田村さんも話します。Art Translators Collectiveについて「意図的にコレクティブと呼んでいこう」と田村さんが考えた理由には、通訳や翻訳という職の専門性に対する無理解があったようです。
田村:最近は機械翻訳のイメージも強いので、この人に言ったら何でも簡単に翻訳してくれると思われたり、まるで透明人間のように扱われていると感じたりすることもあります。「コレクティブ」を名乗って主体的に発信していくことで、アートにおけるトランスレーションの価値や創造性を伝えていければと思いました。またチームとして活動することで、アートの通訳・翻訳にも専門家がいて、相談できる人がいるんだ、ということが可視化できてきたと感じています。
「同じ言語でも文化的背景の違いから話が通じないということもある」と指摘する田村さんは、単に言語から別の言語へと変換するのではなく、「文化と文化や、人と人のコミュニケーションをどのようにつなぐか」ということを実践し続けてきました。田村さんがコミュニケーションデザインディレクターという役職でかかわった「札幌国際芸術祭(SIAF)2020」を引き合いに出し、熊倉さんも「まさに芸術祭と鑑賞者とをつなぐ仕事をされていたと記憶しています」とうなずきます。
一緒に汗をかくなかで、考え方が変わってくる
文化的な背景の違いによるコミュニケーション不全は、確かに言語によるもののみには限りません。北本市でのプロジェクトについて、吉田さんは行政側とのコミュニケーションに課題を感じたそうです。地域に根ざすアートプロジェクトは特に、行政と市民、アーティストサイドのコミュニケーションが重要になってきます。一方で、同じく北本市のプロジェクトに携わっていた熊倉さんによると、当時の北本市プロジェクト担当者が同市の副市長となり、目[mé]のファンでいるとのことで、「因果が巡ったよう」だとも感慨深げに語りました。
吉田:当時の同僚であり、現在も北本市とのプロジェクトに携わっている友人から、現市長に「10年経った今ならわかる」と話していたとうかがいました。廃校になった学校を「クリエイティブセンターにしたい」なんて、以前だったら絶対いわなかっただろうことも口にしていました。当時20代だったスタッフが今も北本市で活動していたりと、誰かが水をやり続けてくれたからということもありますが、あの頃にまいた種が今、花を咲かせ始めていると感じます。
さまざまな人々がプロジェクトにかかわる際に衝突が起こることはよくあることのようで、吉田さんも武田さんも若いころは、上の立場の人に対しても怒ることがしばしばあったようです。しかしながら、キャリアを重ねるにつれ、異なる思惑で働く人々の考え方を知り、以前のように怒るのでなく、相手の立場を意識して話すようになったといいます。
武田:アートネットワーク・ジャパンでは、行政と対等にプロジェクトにかかわるNPO法人というマインドで育てられました。ロームシアターでも、当初はその姿勢そのままで、新入りのくせに専務理事などの重役に対しても生意気に接していたと思います。大きな組織では必ずしも文化芸術が第一だと考えている人ばかりでもなく「何でこの人たちと働いているんだろう?」と当初は悩み考えることもありましたが、今ではそういう多様な人々とともに活動する中で生まれるものこそ、豊かな可能性を孕んでいると感じています。
また、行政側として働いた経験もある吉田さんは「行政のなかに入ってみると、実は応援してくれている人もいる」ことがわかって希望を見出したと話します。もちろん、基本的にすべて大きな政策のなかに位置づけられていないと事業を展開することができないという小回りの効かなさや、政治的な内容を取り扱いづらいという不便さはありつつも、行政と一緒にアートプロジェクトを運営する魅力についても語ってくれました。
吉田:三宅島では、行政の内部で私が個人的に関係を築いていくことで、表向きには応援しづらくても状況は変わると思いました。行政の人と働いていておもしろいのは、最初は嫌々ながらプロジェクトを担当していたその人が、一緒に汗をかいて働いていくなかで考え方が如実に変わってくるのがわかるんです。今後、同世代の彼らが出世していったら、と期待しています。今の足立区のプロジェクトでも、そう感じています。
次の世代のためには、怒っておくことも必要
さまざまな立場で働く人々の考え方を知って「怒らなくなった」と語るお二人ですが、コレクティブを主宰する田村さんは「代表として、何かトラブルが起こったときに自分は謝る役割」だと考えているとしつつも、後進の世代のためにあえて怒る必要も感じるようになったと話します。
田村:若いころは自分のことだけで精一杯でしたが、次の世代が働きやすい業界にするためには、今ちゃんと怒っておくことも必要だと思います。不正に対してすら怒りを感じなくなったら終わりですしね。仕事相手にも、おかしいと思ったことを指摘することで、次の依頼では改善されていることもあります。中堅世代として、そういうことも仕事の一つだと考えています。どんなことに怒りを感じるかということと、それを表明するかどうか、どう表明するか、はそれぞれ別の問題なので、私もお二人同様、自分の怒りをコントロールする方法を獲得したことは成長だと感じます。
「謝る役」を自分の担当だと考えているという田村さんに、武田さんからは「イメージと違いますね」という声も聞かれましたが、相手の立場を尊重し、状況をよくするために謝る役も怒る役も引き受けるというのは、まさに媒介者としてのコミュニケーションというテーマを自らに課してきたトランスレーターにふさわしい態度のように思います。田村さん自身は、「単に口がうまい、というのもあるんですけど」と、笑いも誘います。
田村さんの話を受けて、熊倉さんは「私の敬愛するアートマネージャーのパイオニア」である宮本初音さんが「掃除と挨拶」を重視していたエピソードを披露しました。まだ地域のアートプロジェクトが一般的でなかった時代、何をしているのかよくわからない若者たちがやってきても「朝、まちを掃除して『こんにちは』と挨拶している分には、まちの人もそんなには怪しく思わないでしょう」、と。また、「お借りした箒1本の返し方一つ」が信用にかかわるとも話します。
制度や市場から漏れてしまうものを扱えるのがアートマネジメント
宮本さんや熊倉さん、そしてオリジナルTAM世代の方々が切り拓いてきたアートマネジメントの分野ですが、中堅世代の3名は上の世代との違いをどのように感じているのでしょうか。武田さんは、長年お世話になった「市村さんだからいいますけど」と前置きをしつつ、1998年の「トヨタアートマネジメント講座 東京会議 会議録」に出ている市村さんの発言や今もネットTAMに掲載されている「アートマネジメントを超えてドラマトゥルクへの転換」を読み返したりすると「やっと古く感じることができるところまで来れた」と話します。
武田:たとえば、対談の中では、劇場で上演される演目と地域コミュニティとの協働で生まれるものを区別するようなことが強調されていて、芸術というものが特権的に扱われているように感じました。もちろん専門性があることは前提で、高めていくことも大事ですが、ときには専門性という鎧を脱いで話せることも重要です。制度や市場というものから漏れてしまうものはどうしてもあって、そういうものを扱えるのがアートマネジメントだと思います。
「僭越ですけど」と断りながらも、オリジナルTAM世代が見たものよりも先の景色を見据える武田さんの発言に、熊倉さんも「それは市村さんも喜ぶと思いますよ」とうれしそうに応えました。「アートマネジメント」という言葉で名指すことで、認知されていなかった専門性や役割の重要性を世に知らしめた世代が築きあげた現在があるからこそ、今また新しい課題に取り組むことができるのでしょう。
摩擦係数をしなやかに、ポジティブに自身の経験にする
オリジナルTAM世代の座談会では「アートマネジメントの視野をアート以外の領域にも拡げるフェーズに移ってきた」という趣旨の発言が森さんからありましたが、人生の重要なポイントにいつも森さんがかかわっていた吉田さんも、やはり「別の領域の人々と言葉をつくる」必要性について訴えます。
吉田:今は文化や美術の方ではなく、福祉の方からアートプロジェクトに期待する声を聞くことが増えました。アート領域にいる私たちがまちなかに出たことによって、地域が抱えながらも認知していなかった社会課題とアートが結びついたように感じます。上の世代が開けた穴と、別の領域に開いていた穴とのバイパスになるようなことが、今の世代がやることなんだと思います。
上の世代が切り拓いた恩恵を受けているという実感は、田村さんも同じく感じるところのようです。「通訳の現場にもたくさん連れて行ってもらって、ロールモデルだなんていったら天国で怒ると思うのでいえませんが、心のなかではそう思っている」という木幡和枝さんの活躍にも触れながら、世代間の働き方の違いについて話します。
田村:木幡さんもまさにそうですが、上の世代の方々は本当に「孤高の戦い」という印象です。彼らが苦心して切り拓いてくれた場所で、私たち世代はどのようにしてお互いに助け合っていくかということが問われています。もっと下の世代はより切実で、世の中に希望も持てないし、支え合わないとサバイブできない。若い世代はハラスメントの防止や労働環境の改善といった課題へのリテラシーも非常に高いので、「助け合っていこうよ」と声をかけるにも相手の迷惑になるのではとためらったり、優しい気持ちが働きすぎて、やりづらくなっているように感じます。お互い尊重しつつも、ラディカルな作品、世の中に問いを突きつけるような作品はつくれると信じているので、一緒に頑張っていきたいです。
「信頼関係があるなかで、ぶつかり合うことでよい表現が生まれるから、勇気を持ってやることが大事」と力説する田村さんの言葉に、武田さんも同調します。本来、誰もが自由にできることであるはずの「ものづくり」や「表現」が、さまざまな理由から萎縮してしまい、難しいものとして捉えられているような状況にあるのではと警鐘を鳴らします。
武田:アートマネジメントは浸透してきて、就職先としても昔と比べると少しずつ増えてきました。それはよいことなのですが、そもそも芸術や創作行為そのものは、お金やシステムのこととは関係なく、誰もが「やっていいものでしょ」という気持ちがあります。先ほどの田村さんの話にもあったハラスメントのことなど、制度はもちろん大事ですが、そういう「怯え」があることによって、作品をつくりたくても簡単にぱっとつくれない状況があると感じるので、そこは整理したいなと今は思っています。
第一線で活躍する3名の想いを聞いた熊倉さんは、東京アートポイント計画にも携わっていた佐藤李青さんによる「アートプロジェクトは一定の摩擦係数がないと意味がない」という言葉を引きながら、「その摩擦係数をしなやかに、ポジティブにご自身の経験値にしていらっしゃることが印象に残りました」と評して、90分におよぶ座談会をまとめます。
大座談会も次回がいよいよ最終回、若手世代のセッションになります。どうぞご期待ください。
プロフィール
1983年横浜市生まれ。2006年~14年までNPO法人アートネットワーク・ジャパン所属、その間「にしすがも創造舎」「フェスティバル/トーキョー」等の企画・公演に関わる。14年冬~ロームシアター京都開設準備室。16年の開館後~18年まで同劇場で事業・企画を担当。その後、フリーランスとして「さいたま国際芸術祭2020」キュレーターなどを務めた後、21年アートマネージャーのコレクティブ・一般社団法人ベンチを設立。その他、現在は舞台芸術制作者オープンネットワーク(ON-PAM)副理事長などを務める。
アート専門の通訳・翻訳者の活動団体Art Translators Collective代表。人と文化と言葉の間に立つ媒介者として翻訳の可能性を探りながら、それぞれの場と内容に応じたクリエイティブな対話のあり方を提案している。東京藝術大学大学院美術研究科グローバルアートプラクティス専攻非常勤講師。札幌国際芸術祭2020コミュニケーションデザインディレクター。NPO法人芸術公社所属
1984年生まれ。大阪市出身。埼玉県北本市で実施された〈北本ビタミン〉(2010年〜2012年)や東京都三宅島の〈三宅島大学〉(2013年)などアートプロジェクトの事務局として企画運営に携わる。その後、2014年にはアートポイント計画のプログラムオフィサーに従事。現在、足立区千住を中心に「音」をテーマにまちなかで展開しているアートプロジェクト「アートアクセスあだち 音まち千住の縁」のディレクターを務める。東京藝術大学特任助教。
熊倉純子 東京藝術大学大学院 国際芸術創造研究科 教授
パリ第十大学卒、慶應義塾大学大学院修了(美学・美術史)。(社)企業メセナ協議会を経て、東京藝術大学教授。アートマネジメントの専門人材を育成し、「取手アートプロジェクト」(茨城県)、「アートアクセスあだち―音まち千住の縁」(東京都)など、地域型アートプロジェクトに学生たちと携わりながら、アートと市民社会の関係を模索し、文化政策を提案する。東京都芸術文化評議会文化都市政策部会委員、文化庁文化審議会文化政策部会委員などを歴任。監修書に『アートプロジェクト─芸術と共創する社会』『アートプロジェクトのピアレビュー─対話と支え合いの評価手法』ほか。
- 取材日:2024年8月28日(水)
- 場所:東京藝術大学 上野キャンパス 国際交流棟 TAKI PLAZA 4階 茶室・コモンスペース
- 協力:東京藝術大学 キュレーション教育研究センター
- 企画協力:熊倉純子[東京藝術大学大学院 国際芸術創造研究科 教授]
- 企画・コーディネート:韓河羅[東京藝大キュレーション教育研究センター 特任助教]
執筆:メセナライター:清水康介(しみず・こうすけ)
ウェブメディア『タイムアウト東京』にてエディター/ライターとして、アート記事を中心に担当。退社後はフリーランスとして、レビューサイト『RealTokyo』の編集業務や、NPO法人スローレーベルの賛助会員向けコンテンツの記事執筆などを手がけるほか、ウェブサイトの制作や舞台作品の演出助手など、頼まれるまま色々と手を出しています。